大森安仁子伝

adds by google

ads by google
Pocket

大森安仁子伝

今、大河ドラマ「いだてん」が放映中で、劇中に大森安仁子なる外国人妻が登場しますが、この女性には「いだてん」以上の人生ドラマが秘められています。ご紹介します「大森安仁子伝」です。

≪インデックス≫

1「出生/就学期」

2「若き日の創作活動」

3「大森との出会いと結婚」

4「大森平蔵」

5「平蔵死後の生涯」

6「有隣園」

参考サイト一覧―

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E5%AE%89%E4%BB%81%E5%AD%90

参考サイト:http://nhksaigoudon.seesaa.net/

参考サイト:http://arcadiasystems.org/academia/cassatt6j.html#shepley

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A3%AE%E5%85%B5%E8%94%B5

参考サイト:https://www.gllc.or.jp/profile/history/studyabroad.html

参考サイト:https://www.gllc.or.jp/profile/history/studyabroad.html

参考サイト:https://tokyo.ymca.or.jp/about/history.html

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%9C%E7%B1%B3%E5%88%A9%E5%8A%A0%E4%B8%B8


1「出生没年/就学」

生年月日:1856127日アメリカ・ミネソタ州セントクラウド生まれ

没年月日:194184日東京にて没(享年84

国籍:アメリカから日本に帰化

旧姓本名:Annie Barrows Shepley /アニー・バローズ・シュプリー

埋葬地:東京多磨霊園(20区・1種・10側)

出典元:http://nhksaigoudon.up.seesaa.net/image/E5A4A7E6A3AEE5AE89E4BB81E5AD90.jpg

インフォメーション:(一部Wikipediaより)シュプリー家は1635年にイングランドマンチェスターから渡米した移民が先祖で、アメリカ移民後はニューイングランドで礎を築いた名門一族でした。アニーは幼少のころから絵に対する興味を抱き、東部の学校で絵を学ぶ夢を抱いていました。しかし1873年彼女が17歳の時、一財産を作るべくカルフォルニアで農場経営に臨んでいた父親が何者かに殺害される事件に見舞われ、絵の勉学の夢を捨てざるを得ない状況に陥ります。収入の道が途絶えた母親は子供たちを連れてボストンに移り、下宿屋を始めます。また妹が裕福な実業家と結婚することとなり 、こうした親族一同の支援を得て、アニーはボストンの美術学校への入学を果たします。画才に恵まれていたアニーは翌年には、ニューヨークで絵画教師となり自身のアトリエも所有します。パリへの留学機会にも恵まれますが、間もなく母親・兄弟をなくし絵の世界へと没頭していきました。なお就学学校と師弟関係は、ニューヨークではハリー・シドンズ・モウブレーに学び、パリのアカデミー・ジュリアンではジュール・ジョゼフ・ルフェーブルリュシアン・シモンのもとで学んでいます。


2「若き日の創作活動」

「作品/Portrait of Young Woman」出典元:http://arcadiasystems.org/academia/shepleywoman6.jpg

「作品/The Red Hat-Portrait of a Scandinavian Girl」出典元:http://arcadiasystems.org/academia/shepley-redhat-ptrtScandinaviangirl.jpg

インフォメーション:家族を失ったりアニーは失意のうちにコネチカット州ウッドストックへと転居し、そこで肖像画家、児童書のイラストレーターとしての活動を本格的に開始し始めます1893シカゴ万国博覧会が開催されると、彼女は博覧会会場であるパレス・オブ・ファインアーツ(現在のシカゴ科学産業博物館)に作品Work and Playを 、The Wonderful Storyを同博覧会会場女性館にそれぞれ展示していますまたこの頃、シュプリーの画業を代表する作品Portrait of Artist’s Niece (Rosamund Sargeant)Portrait of a Young Woman」を制作しています。また作品「PortraitStudy of a Head189612月から18973月までペンシルベニア美術アカデミーに展示されました。また当時、アニーニューヨーク5番街96番地 (96 Fifth Avenue) に暮らしており、1897にはEchoと題した作品をアートクラブ・オブ・フィラデルフィアに展示していますさらに彼女の作品の多く1905にウィリアム・クローセン(William Clausen)所有のニューヨークの画廊で披露されています。


3「大森との出会いと結婚」

「YMCA時代/最上段右端」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/90/Omori_hyozo.jpg/800px-Omori_hyozo.jpg

インフォメーション:コネチカット州ウィンダム郡ウッドストックの自宅で49歳になったアニーは、創作活動に専念するため、その年の夏、食事を賄ってくれる料理人を雇うため国際YMCAトレーニグセンターを訪ねます。夏休み期間に入っていたため施設にはほとんど人がいない状態で、料理人のアルバイトに応募してきたのはたった一人でした。その唯一の応募者が当時、YMCAの交換留学生としてスタンフォード大学経済学部での就学を終え、当トレーニングセンターで学んでいた日本人留学生・大森平蔵でした。しかし応募した平蔵は料理を作る仕事の内容に驚愕します。結局、平蔵は料理人としての仕事は一切出来なかったため辞職を申し出ますが、平蔵に興味を持ったアニーは、使用人として採用し、住み込みで働き始めます。厳しいピューリタンの家系に育ったアニーは、使用人の平蔵と食事を共にするようなこともなく、夏休みは、たちまちのうちに過ぎ去っていきました。休みが終わろうとする頃、庭のペンキ作業中に平蔵は庭にあったツタウルシにかぶれ、体中が腫れ上がる症状に見舞われました。この時、アニーが看病したことから二人は心を通わせる関係を築き、夏休み後、文通を始めます。

「平蔵書き記した当時の書簡」出典元:https://www.gllc.or.jp/profile/history/img/photo-ohmori02-4.png

その間も、平蔵は日本帰国後には、体育・スポーツを普及したり、社会福祉事業の浸透などに身を投じたいという計画をアニーに語り、その思いに共感した彼女は平蔵を支援して支えていく決意をします。1907年明治40101日、アニー・シュプリーは大森平蔵と結婚し、アメリカで挙式します。厳格な家系のシュプリー家は当初、猛烈な反対をするとともに、この結婚話自体が地元でも話題なり、新聞に掲載されるほどだったそうです。時にアニー50歳、平蔵31歳、二人とも初婚でした。


4「大森平蔵」

1876314日岡山県生まれ。

1913113日カリフォルニア州パサディナにて病没。享年36

「国際YMCAトレーニングスクール(卒業アルバム)」出典元:https://www.gllc.or.jp/profile/history/img/photo-ohmori02-1.png

インフォメーション:岡山の素封家に生まれ、東京高等商業学校を卒業後、明治34(1901)年に渡米し、スタンフォード大学経済学部を経て1905年からマサチューセッツスプリングフィールドにある国際YMCAトレーニングスクール(キリスト教布教のための指導者養成学校。現スプリングフィールド大学)で学びました。当時アメリカは植民支配の新手法としてスポーツ利用を推進しており、異教徒大量改宗を目指す英米仏のキリスト教会の熱心な活動を背景にしてYMCAは英米スポーツをアジアに導入する組織機関となり、1889年にはその第一号として日本YMCAが設立されていた背景などがありました。その後国際オリンピック委員会の支援を得るためにYMCAはアジア各地のキリスト教系学校や前述のトレーニングスクールでスポーツ指導者を多数育成していた経緯があり、大森平蔵はそのような計画に沿った留学生の一人でしたその在学を経、1907に同校を卒業し、在学中に知り合った20歳上の画家アニー・シェプレー(日本に帰化した後大森安仁子と改名)と結婚、1908妻アニーと共に帰国します。

「YMCAでのバスケットボール普及」出典元:https://tokyo.ymca.or.jp/img/about/history4.png

帰国後の1909年東京YMCAの初代体育部主事に就くと、平蔵はバスケットボールの指導を始めます。さらに日本女子大学の教授となって、衛生学や体育学の教鞭をとり、バスケットボール、バレーボール、テニスなども指導紹介します。また留学中、平蔵が痛感したことは日本人の体格の貧弱なことでした。平蔵はそのことを打開すべく、日本人の体格向上を目指して、児童遊園の必要性と普及をYMCA幹部に提言しますが受け入れられず、翌年に東京YMCAを辞職します。結局、自らが決意し、1911に、セツルメント運動の一環として妻アニーとともに、念願の社会福祉施設・有隣園を新宿区(当時の淀橋区)に設立します。この施設は生活と文化の向上を助けるセツルメントの草分けとなり、アニーが園長となり、幼稚園の先駆けとなりました。

「旧有隣園跡地に建設された住友グランドタワー」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Shinjuku_Grand_tawer.JPG/300px-Shinjuku_Grand_tawer.JPG

この児童福祉施設・有隣園は当時、成子天神で遊んでいた子供たちに遊び場とスポーツを提供する場であり、近隣の子供たちの間で存在が広まり、その後、保育園施設の増設へとつながっていきました。その一方で、地元岡山に妻アニーを帯同し、外国人との結婚を承諾され、明治44年にアニーは日本人として帰化申請し、大森安仁子となります。(*正式の日本国籍取得は1922年)

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c9/AmericaMaru-1943.jpg

また同年、嘉納治五郎とともに大日本体育協会(現日本体育協会)を設立してその理事となり、嘉納と日本オリンピック委員会(JOC)を設立して日本が初参加したスウェーデン1912年ストックホルムオリンピックに於いて監督として参加します。しかし大森はこの時すでに 肺結核を患っており、日本からシベリア鉄道を経由しての17日間の旅はまさに死への旅 立ちでした。1913オリンピックからの帰国途上、妻アニーの親族が住むブルックリンに立ち寄ったのち日本行の船が出るカリフォルニア州パサディナで持病の肺結核の悪化により36歳にて死去しました。


5「平蔵死後のアニーの生涯」

「平蔵とアニー」出典元:https://www.gllc.or.jp/profile/history/img/photo1.jpg

インフォメーション:夫平蔵に先立たれたアニーには、故郷のニューイングランドに帰る選択肢がありましたが、夫の遺志を継ぐ決意をし、死の直前まで平蔵が行っていた文部省から依頼されていたアメリカの体育施設の視察を行い、これを報告書にまとめて文部省に提出するために帰国の途に就きます。年号が変わった大正2年春、アニーは帰国し、文部省への対応を終えると直ちに有隣園に赴き、第一回卒業生12名を無事、卒園させます。兵蔵の死後もアニーは有隣園の園長として、30年にわたり尽力、関東大震災の直後には被災者の世話も行いました。そして平蔵死後の「有隣園」 を支援したのが、後に衆議院議長となる松田竹千代でした。

「晩年の竹千代と妻・澄江」出典元:https://www.gllc.or.jp/profile/history/img/photo3.jpg

188822日大阪生まれの松田竹千代は、若いころ雑誌で見た新天地アメリカに強烈な憧れを抱き、190214歳の時、単身アメリカに渡った熱血漢でした。アメリカ各地を放浪しながらも、苦学してニューヨク大学を1911年卒業し実業家を目指しましたが、事業家カーネギーの理念に影響を受け、社会事業家を目指して1913年(大正3年)帰国していました。神田YMCAで行っていたアニーの児童問題の講演を偶然見かけた竹千代は感銘を受け、アニーの活動の支援を申し出、ボランティアとして生涯、有隣園の活動を支援し続けます。また有隣園の活動の傍らで、アニーは1920に『Diaries of Court Ladies of Old Japan』(「古き日本の宮廷女性の日記」の意)を出版します」。この本は、『紫式部日記』、『和泉式部日記』、『更級日記』の翻訳を併せたもので、この翻訳にはエイミー・ローウェルによる序文が付けられました。またアニー関東大震災での奉仕活動で日本政府から表彰されましたが、第二次世界大戦の最中の1941なくなり、夫・兵蔵と同じ、多磨霊園に葬られました。享年84歳でした。

*松田竹千代の墓は鎌倉市・瑞泉寺に本墓があり、同墓には大森兵蔵と妻の大森安仁子(アニー・シュプリー)も眠るという標記がありますまた、多磨霊園の松田家の墓誌には、竹千代の長男の大森兵蔵(S18.2.8 21歳にて戦死)の名が刻まれています。同じ名前をつけて、大森家の養子になっていたのでしょうか。そのため、松田家の墓に大森家も分骨されているのでしょうか。事情は 不明です。公表情報では大森夫妻は多磨霊園に埋葬されたとあります。


6「有隣園」

「有隣園の記念石碑」出典元:https://www.gllc.or.jp/profile/history/img/photo2.jpg

インフォメーション:大森平蔵・アニー夫妻の二人は私財を投じ、淀橋区(現東京都新宿区)に「有隣園」を開設しました。ここは恵まれない子どもたちの教育を主眼とした日本初の社会福祉事業の拠点でした。またこの施設は生活と文化の向上を助けるセツルメントの草分けとなり、アニーが園長となり、幼稚園の先駆けともなりました。平蔵の死後この「有隣園」 をアニーは一人で切り盛りしていきましたが、この活動を支援していたのが、後に衆議院議長となる松田竹千代でした竹千代は「有隣園」の運営に協力するかたわら、大森兵蔵の姪、藤原澄江と結婚。1928年には国会議員に立候補し、当選。議員時代は文部大臣、衆議院議長などを歴任し、福祉事業の発展に寄与しました。戦時中「有隣園」は空襲で焼失しましたが、政界を引退した竹千代は、ベトナム戦争中に孤児のためにビエンホア孤児職業訓練センター「有隣園」を創設。孤児が技能を身につけ、経済的な自立ができるよう、92歳で亡くなるまで園長として澄江とともに運営に尽くしました。松田竹千代の遺志は、娘の妙子が引き継ぎ、ベトナムの「有隣園」は、2006年に解散されるまで、多くの若者に自立の機会を提供しました。