静かなる人気フォトグラファー/リチャード・アヴェドン

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静かなる人気フォトグラファー/リチャード・アヴェドン

アヴェドンは一世を風靡したファッションカメラマンとして知られていますが、その一方で、その生き方が映画のモデルとなったり、社会派の活動家としての側面も有したスマートな男性でした。その生きざまは時代を超越し、今でも、アヴェドンファンが世界中に存在します。ご紹介します「静かなる人気フォトグラファー/リチャード・アヴェドン」の生涯です。

≪インデックス≫

1「概要」

2「キャリア」

 2-A.「ハーパーズ・バザー」時代

 2-B.「ディオール/ニュールック」時代

 2-C.「ドヴィマ・ウィズ・エレファンツ」時代

 2-D.「映画・パリの恋人」

 2-E.「ヴォーグ」時代

 2-F.「ヴェルサーチ専属契約」

 2-G.「ニューヨーカー専属契約」

3「私生活」

4「オードリーとのエピソード」

5「アヴェドン独特のポートレート撮影技法」

6「写真集著作」


1「概要」

出典元:https://time-az.com/images/2018/05/20180515AvedonRSelfie.jpg

基本情報:1923年、ニューヨーク生まれ。デパートの広告写真撮影からキャリアを始め、『ハーパース・バザー』誌のアートディレクター、アレクセイ・ブロドヴィッチに起用されてから華々しい活躍が始まりました。モデルをファインダーの向こうに静かに佇ませるのではなく、躍動感のある動きを求め、生々しいルポルタージュや映画的な表現を持ち込み、意外性のあるコラージュを駆使するなど、「劇場型」の個性が当時のファッション写真の常識を次々と塗り替えました。オードリー・ヘップバーン主演の映画『パリの恋人』(’56)はアヴェドン自身がモデルとなったことで話題を呼びました’66年から『ヴォーグ』誌へ移籍して活躍する一方、浮浪者や炭坑夫などを大迫力で活写したシリーズ「アメリカ西部にて」を発表して物議を醸し、ベトナム戦争、ベルリンの壁崩壊などを伝えるなど社会派の作品アヴェドンの真骨頂です。宇多田ヒカルのCDジャケットを手がけるなど、日本での話題も多かった写真家です’04仕事の現場で脳内出血のため死去。 現在でも世界中にアヴェドンファンを有するアーチストといえます。


2「キャリア」

2-A.「ハーパーズ・バザー」時代

「大戦後のハーパーズ・バザー誌」出典元:https://base-ec2if.akamaized.net/w=2048,a=0,q=90,u=0/images/user/blog/301255/blog/b55cf98e334241e82c5d92f0cc9a16bb.jpg

基本情報:アヴェドンはニューヨークユダヤ系ロシア人の家に生まれ12歳の頃にはコダック製カメラブローニーで写真を撮るようになっていました。コロンビア大学で哲学と詩を学びます1年で中退した後、1942年から1944年の間、軍役としてブルックリンにあったマーチャント・マリーン(United States Merchant Marine:平時は商船隊として活動し、戦時には米海軍輸送船団の役割を担当)の基地に勤務し、ここで機関誌『ザ・ヘルム』(The Helm)用の写真撮影に携わりました

「アレクセイ・プロドヴィッチ」出典元:https://3.bp.blogspot.com/-0WzKXlrqq7Y/WZ0_igfsuHI/AAAAAAAAUQA/JhMqq_sjJF051cBmZk59clRKrgCz3HP4ACLcBGAs/s1600/Alexey_Brodovitch.jpg

アヴェドンは除隊後、本格的にファッション写真家を志し、まずニューヨークにあった高級女性衣料店「ボンウィット・テラー」(Bonwit Teller)に無給の広告写真撮影担当職を申し出、エレベータ内に貼る写真の撮影担当に採用されることに成功します。またボンウィット・テラーでの写真やマーチャント・マリーンでの身分証明書用写真、自らの姉妹のルイス・アヴェドンをモデルとした写真等をポートフォリオにまとめて有力ファッション雑誌『ハーパース・バザー』の編集者アレクセイ・ブロドヴィッチのもとに持ち込みます。ブロドヴィッチはマーチャント・マリーンでの作品の力量を認め、『ハーパーズ・バザー』誌のティーンエイジャー向けページ「ジュニア・バザー」での仕事を依頼します記念すべきアヴェドンの同誌デビューは194411月号でした。同誌での仕事と並行してアヴェドンは、ニュースクール・フォー・ソーシャル・リサーチ(現在のニュースクール大学)のデザイン研究所でブロドヴィッチに写真を師事します1946には自分のスタジオを持ち、『ハーパーズ・バザー』と並ぶ有力ファッション雑紙『ヴォーグ』や、当時怪物的な販売数を誇ったグラフ誌『ライフ』でも写真を撮り始めました


2-B.「ディオール/ニュールック」時代

「カーメル・スノー」出典元:https://overdressedforlife.files.wordpress.com/2013/12/201313013523456.jpg?w=225&h=300

基本情報:1947年夏、『ハーパース・バザー』誌のカーメル・スノウパリ・コレクション(オートクチュール・コレクション)を撮影させる為、アヴェドンをパリに派遣します。ただし同誌の1947年秋冬のパリ・オートクチュール・コレクション撮影はすでにルイーズ・ダール=ウォルフが受注していた上、ダール=ウォルフは若いアヴェドンの作風を毛嫌いしていたので、アヴェドンは「ダール=ウォルフには見つからないように」との指示を受けていたと言います。結果的に、アヴェドンはその時期のパリ・コレクション会場にはあまり足を運べず、パリの街を歩き回ることになりました。しかし、この渡仏においてアヴェドンはRenéeをモデルとしたディオールのいわゆる「ニュールック」の一連の写真を撮影し、この写真作品が『ハーパース・バザー』誌194710月号に掲載されました。この一連作品は初期のアヴェドンのファッション写真の特徴であるダイナミックなモデルの動きパリの街並みを利用した映画風の演出斬新なカメラ位置ブレやボケなどの諸特徴をすでに備えていました。

「Reneeのニュールック作品」出典元:https://i.pinimg.com/originals/00/5d/77/005d77c9f9563c10e8d3a50729a702c6.jpg

アヴェドンが頻繁に用いた被写体ブレやボケは、彼登場する10年前に活動していたグループf/64のようなパンフォーカスが主流であった当時のアメリカ写真界では極めて異質なものであり、『ザ・ニューヨーカー』誌は「アヴェドン・ブラー」(Avedon Blur)という言葉をわざわざ考案してアヴェドンの作風を揶揄しました。また「パリの街をファッション写真の背景に多用する手法については、アヴェドンの師であるブロドヴィッチがデザインを担当して1945年に出版されたケルテース・アンドルの写真集Days of Paris、あるいはブラッシャイウィリー・ロニス、エデュアール・ブーバ、ロベール・ドアノージェルメーヌ・クルルら東欧からの移民を中心とする写真家達によるパリを題材とした写真群の影響が随所にうかがえると指摘されています結局1947年のパリ・オートクチュール・秋冬コレクションの写真の『ハーパース・バザー』掲載数アヴェドン作品がダール=ウォルフを上回り、以後アヴェドンは同誌での地位を確固たるものとしました。

「パリ街角のシャネル」出典元:https://rr.img.naver.jp/mig?src=https%3A%2F%2Fs-media-cache-ak0.pinimg.com%2F736x%2F2c%2Fa5%2F20%2F2ca5207149bb90137e772b3d66d75e29.jpg&twidth=1000&theight=0&qlt=80&res_format=jpg&op=r

翌年1948年にはカーメル・スノウのセッティングにより、アヴェドンは当時のパリファッション界の寵児ココ・シャネルのポートレートを撮影します。ナチのフランス占領中より戦後までココ・シャネルはナチ高官と愛人関係にあったためフランスでの立場は非常に微妙でたが、アヴェドンはパリの街角に偶然残っていた「もしもヒトラーが原爆を手に入れていたら」と書かれたポスターの下にシャネルを立たせて撮影を行った上、カーメル・スノウの想像を超える過激な文言を写真に添えようとしたため、スノウは震え上がってこの写真の誌面掲載を見送ったと言いますしかし、このような撮影技法と最終的な表現を通してアヴェドンとシャネルはお互いに非常に好感を持っていきました


2-C.「ドヴィマ・ウィズ・エレファンツ」時代

「マレラ・アネッリ」出典元:https://keepitchic.com/wp/wp-content/uploads/2019/02/marella-agnelli-584462.jpg

基本情報:1949に入るとアヴェドンは『シアター・アーツ』(Theater Arts)誌の編集者兼フォトグラファーとなり、舞台芸術を対象としたジャーナリズムの分野に活動の場を広げていきました。アヴェドンはすでにファッション写真家としてはライバル誌『ヴォーグ』で大活躍していたアーヴィング・ペンと並ぶ若手のトップの座を手に入れており、1950年代前半になると、ドヴィマ(Dovima)、スージー・パーカー(Suzy Parker)、グロリア・ファンデルビルト(Gloria Vanderbilt)、オードリー・ヘプバーンらをモデルとして多くの名作を撮っています1954年にディオールが一世を風靡したHライン」を発表した際には、このデザインの着想をアヴェドン撮影によるマレラ・アネッリ(Marella Agnellフィアット会長ジャンニ・アネッリの妻)のポートレートから得たと発言しています。(*ちなみに195312月に撮影されたアネッリのポートレート1981年に50枚限定でプリントされましたが、「エディションナンバー442010年のクリスティーズのオークションで49000ユーロで落札されています

「ドヴィマ・ウィズ・エレファンツ」出典元:https://www.vogue.co.jp/uploads/media/2017/07/31/11-school-of-christian-dior.jpg

当時金髪のモデルはあまり好まれなかったが、この頃から金髪のモデルを使ったファッション写真の撮影に本格的に取り組んでおり、サニー・ハーネット(Sunny Harnett)を起用してフランス各地で撮影を行なっています1954年にはかつてブラッサイやケルテースらが撮ったような「パリの夜景」を舞台にしたファッション写真に挑戦し、ハーネットをモデルにパリの通りを封鎖してフラッドランプの大がかりな照明を用いた作品を撮影しています。この「パリの夜景によるファッション写真」に手応えを感じたアヴェドンは、彼としては異例となる同一モデルのパリ・コレクション撮影への再起用を決断し、19558月のパリ・コレクション撮影にドヴィマを呼びます。この時、シルク・ディヴェール(Cirque d’hiver)で8×10in判カメラで撮影されたのが後にアヴェドンの代表作の一つとされる「ドヴィマ・ウィズ・エレファンツ」と呼ばれる一連の作品でこの作品は『ハーパース・バザー』誌19559月号に掲載されました。


2-D.映画「パリの恋人」

出典元:http://www.despres.jp/obj/161227paris03.jpg

基本情報:アヴェドンは1944年にモデルのドルカス・ノウェル(Dorcas Nowell)、通称ドオ・アヴェドン(Doe Avedon)と結婚していたが、二人の友人であった脚本家のレナード・ガーシェは、二人の生活に着想を得て、新たなミュージカル脚本の執筆に取り組んでいました。ストーリーはファッション写真家が嫌がる妻をなだめすかしてファッションモデルにしてしまうというものでこの企画は最終的に映画脚本として完成し、オードリー・ヘプバーンとフレッド・アステアの主演で製作されることになりました。これが映画パリの恋人」(Funny Face)であ。なお、本作にはヘプバーン以外にもドヴィマ、スージー・パーカー、サニー・ハーネットらアヴェドンのパリ・コレクション撮影でモデル起用された女性達が脇役として出演していました

映画の製作が始まったのは1956年の春でたが、当時のアヴェドンは、毎年2回行うパリ・コレクション撮影でのモデルたちとのエピソードが取りざたされる状況でした。「モデルが勝手に夜遊びに出かけてしまい、撮影隊が夜のパリの歓楽街でモデル捜索を繰り広げた」「撮影中にセーヌ河に落ちた」「モデルが金持ちのボンボンにナンパされて駆け落ちしそうになった」「撮影に集中しすぎてドヴィマがエッフェル塔から転落しそうになった」等々、撮影を取り巻く様子がゴシップのように面白おかしく伝えられるようになっていました。当のアヴェドンは「パリの恋人」に自ら撮影したファッション写真を多数提供した他、フレッド・アステアに演技上の助言も行なったと言います

出典元:http://img.timeinc.net/time/photoessays/2009/richard_avedon/avedon_13.jpg

ちなみにこの映画撮影と並行して1956年のパリ・コレクション撮影も行ない、スージー・パーカーとロビン・タターサル(Robin Tattersall)がコンコルド広場でローラースケートをしている有名な写真はこの時に撮られたもので


2-E.「ヴォーグ」時代

出典元:https://made-in-wonder.com/images/item/134/pic2.jpg

基本情報:1966、アヴェドンはハーパース・バザー誌」を去り一方の人気誌「ヴォーグのスタッフ・フォトグラファーとなります。その後ファッション雑誌での仕事を続ける一方、精神病院の入院患者の姿や、1963にはベトナム戦争へのプロテスト(Civil Rights Movement)、そしてベルリンの壁の崩壊などを撮影し、社会派的視点を強めた制作活動に邁進し始めます。また様々な有名人をスタジオへ招き、8x10in判カメラでアヴェドン独特のポートレート撮影ていきます。そしてさらなる転換期を迎えます。テキサス州Amon Carter Museumの依頼により、アヴェドンは1979年より6年間かけて自らが撮りたい被写体を求めてアメリカ西部を旅し、16州計762名の人物を撮影しま。炭坑夫、建築労働者、農家、トラック運転手、ウエイトレス、学生、主婦など今までアヴェドンが写してきた華やかなモデルやアーティストとは全く異なる一般的な人々。様々な現実のアメリカ西部生活者を写した大判プリント集「In The American West」 は、この時期の制作活動の結果を集大成した作品集となり大ベストセラーとなります


2-F.「ヴェルサーチ専属契約」

VICE&VERSA AvedonVersace20ans」出典元:https://img20.shop-pro.jp/PA01188/451/product/122080649.png?cmsp_timestamp=20170904214001

基本情報:1979よりテキサス州フォートワースにあるAmon Carter Museumの依頼により、6年にわたりアメリカ西部の住人のポートレート撮影プロジェクトに着手した一方、1978年にはメトロポリタン美術館で大規模な回顧展が開催され、ファッション写真界でのアヴェドンの地位は不動のものとなっていましたが、1970年代のファッション写真の主流はヘルムート・ニュートンやガイ・ブルダンに代表される、性的かつ扇情的なスタイルへと変遷しつつありました。こうした状況もあり、アヴェドンは『ヴォーグ』での活動に区切りをつけ、1980年よりジャンニ・ヴェルサーチの広告キャンペーンを主たる仕事とするようになっていきます。その意味で、この時期は、一方で時代のニューファションリーダー「ヴェルサーチ」との作業と、もう片方で生活感に満ちた人々のポートレート撮影の集積という、大きな二つの世界の中で創作活動を行っていた時期でした。


2-G.「ニューヨーカー専属契約」

「In Memory of Late Mr. and Mrs. Comfort」出典元:https://static1.squarespace.com/static/5575b396e4b017c5045ccbf6/580a26f71b631bb1fe09445c/580a28e6f7e0ab962d884c76/1477072010041/comfort02.jpg?format=1000w

「EGOIST No.11」出典元:https://img20.shop-pro.jp/PA01188/451/product/93398162.jpg?cmsp_timestamp=20150908233602

基本情報:アヴェドンは1984年より、パリでニコール・ウィズニアクが不定期に発行していたファッション雑誌エゴイストEgoysteに活動の場を広げます。また1992年に入るとザ・ニューヨーカー』誌とも契約を結び、数々の作品を発表していきます。この時期のアヴェドンの作品の中で最も著名なのは1995年に『ニューヨーカー』誌で発表された「In Memory of Late Mr. and Mrs. Comfort」と題する連作写真でこの連作はナジャ・アウアマンと男装の白骨をモデルとしたものです


3「私生活」

「Doe Avedon」出典元:http://www.blogcdn.com/blog.moviefone.com/media/2011/12/pbddoavec001h.jpg

「Evelyn Franklin」出典元:https://i.pinimg.com/originals/85/66/b6/8566b67a49e10614638dd687234d0640.jpg

基本情報:1944にアヴェドンはモデルとしては「Doe Avedon」として知られることとなる、Dorcas Nowellと結婚しています5年後に離婚した後、アヴェドンは1951Evelyn Franklinと再婚しますしかしこの結婚もやはり離婚に至りますが、ジョンという息子をもうけています2004925テキサス州サン・アントニオでザ・ニューヨーカー誌への写真を撮影している最中に脳内出血で倒れ、101日に同地で死去しました。当時、アヴェドンは社会的な活動に傾注していたこともあり「民主主義について」と題する2004アメリカ大統領選挙の新たなプロジェクトに着手していた最中でした


4「オードリーとのエピソード」

1961年ハーパーズバザー11月号」出典元:https://www.kosho.or.jp/upload/save_image/12010800/04131108_552b250c84dca.jpg

基本情報:「パリの恋人」の中のオードリーは、アヴェドンの現実のミューズでもありました。映画公開当時、アヴェドンはその時代の最も素晴らしいファッション・フォトグラファーと認められ、キャリアの頂点を極めつつありました。そのキャリアアップ過程でアヴェドンはフォトグラファーとしてスージー・パーカー&ドリアン・レイ姉妹、ドヴィマなど幾人かの女性を発掘していました。しかしオードリーこそがアヴェドンをこの上なくインスパイアしていた存在であったことは間違いありません。背が高く、優美なオードリー。身長173cm 、高い頬骨、くっきりとした瞳、加えて貴族的アクセントのある小さな声、輝く微笑み、誰も真似できないファッションセンス。そんな彼女の魅力には誰もかなわない。 

出典元:https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRkyxGO_oD1tTHarYn_WsPtNCqWoX-UdwyMnO8mtBNfjBN7-XgC

オードリーとアヴェドンとの共同作業は、ユベール・ド・ジバンシィのそれとよく似ている、と評されます。アヴェドンによるオードリーの写真がバザーの表紙を飾ったのは1956年、『パリの恋人』公開の1年前になります。フラワープリントのスカーフとストローハット姿の彼女が、スカーフの下から覗き込むような写真は、まるで一輪の花のようにフレッシュで「ハーパーズ バザー」19564月号の表紙を飾りました。そしてその後もアヴェドンとオードリーによる共同作品はパリを舞台に繰り広げられていきました。

時間は流れ、オードリーが最後にバザー誌に登場するのは19819月号写真撮影はジャック・マリニョン。雑誌の表紙はエリザベス・テイラーが飾り、オードリーは特集記事内に登場する40代女性11人の中の一人として登場したにすぎませんでした。しかし、その時のオードリーはジバンシィを身につけ、マチュアでありながらも、実に美しく、輝いていました。

≪次ページパート2≫もご覧ください