歴史の謎に諸説あり/坂本龍馬暗殺首謀者

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歴史の謎に諸説あり/坂本龍馬暗殺首謀者

毎年1115日になると坂本龍馬の死が話題に上り、その暗殺首謀者が云々されます。歴史の闇の中に葬られた真実は果たして日の目を見る日がやってくるのでしょうか・・・。ご紹介します「歴史の謎に諸説あり/坂本龍馬暗殺首謀者」情報です。

≪インデックス≫

1「坂本龍馬プロフィール」

2「近江屋事件」

3「事件を取り巻く時代背景」

4「首謀者の謎/諸説AE


1「坂本龍馬プロフィール」

出典元:https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024000638.jpg

プロフィール基本情報:以下参照

生年月日:183613日生まれ

「出生~幼少期」:以下参照

龍馬は天保61115183613)、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士・足軽)坂本家の父・八平、母・の間の二男として生まれ、兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいました。 命名の由来は、龍馬が生まれる前の晩に、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見、それにちなんで龍馬と名づけられという説があります。弘化3年(1846)、10歳のときに母・幸が死去し、父・八平の後妻・伊与に養育されます。 幼年期の龍馬の有名なエピソードとして12 13歳頃まで寝小便癖があったとされていますが、愚童であったとの記録は残っていません。元来気弱な少年であり、漢学の楠山塾に入学したものの、いじめに遭い、抜刀騒ぎを起こして退塾させられたと伝えられていますが、諸説あり、はっきりした退塾理由はわかっていません。退塾以降、三姉の乙女が武芸や学問を教えたと言われています。

「現在の川島家」出典元:http://tosareki.gozaru.jp/tosareki/godaisan/KICX1010_.jpg

一方、龍馬の人格形成において多大な影響を与えたのは、後妻・伊与の前夫の実家である下田屋(川島家)といわれています。龍馬は姉・乙女とともに浦戸湾を船で渡り、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある川島家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたと言われています。また川島家にあった世界地図や数々の輸入品を見て、当時から外の世界への憧れを感じていたとも言われています。嘉永元年(1848)に日根野弁治道場に入門して小栗流を学び、非常に熱心に稽古し、5年の修業を経た嘉永6年(1853)に「小栗流和兵法事目録」を得ています

就学~青年期」:以下参照

「ペリー来航」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/09/1853Yokohama_01.jpg/250px-1853Yokohama_01.jpg

小栗流目録を得た嘉永6年(1853年)、龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許されます。出立に際して龍馬は父・八平から「修業中心得大意」を授けられ、溝淵広之丞とともに土佐を出立しました。江戸に到着し、築地の中屋敷に寄宿し、北辰一刀流の桶町千葉道場(現・東京都中央区)の門人となります。 龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の63日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した「黒船来航」が勃発します。自費遊学の龍馬も臨時招集され、品川の土佐藩下屋敷守備の任務に就きます。龍馬が家族に宛てた当時の手紙には「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と書き送っています。

約一年後の安政元年(1854623日、龍馬は15か月の江戸修行を終えて土佐へ帰国します。在郷中、龍馬は中伝目録に当たる「小栗流和兵法十二箇条並二十五箇条」を取得し、日根野道場の師範代を務めます。また、ジョン万次郎を聴取した際に『漂巽記略』を編んだ絵師・河田小龍宅を訪れて国際情勢について学び、河田から海運の重要性について説かれて大いに感銘し、のちの同志となる近藤長次郎・長岡謙吉らを紹介されます。 

「桜田門外の変」出典元:https://jaa2100.org/assets_c/2015/12/img_567476210f26b1-thumb-autox404-31198.jpg

安政2年(1855年)124日、父・八平が他界し、坂本家の家督は兄・権平が翌安政32月に継承。同年7月、龍馬は再度、江戸剣術修行を申請して8月に藩から1年間の修業が許され、9月に江戸に到着。大石弥太郎・龍馬と親戚で土佐勤王党を結成した武市半平太らと共に築地の土佐藩邸中屋敷に寄宿します。安政51月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられます。これら「千葉道場で塾頭を務めたこと」や「免許皆伝を伝授された」など、龍馬が優れた剣術家であった証拠が数々残されています。 同年9月一年間の修行を終え、龍馬は土佐へ再び帰国しますが、当時の土佐藩は幕府からの黒船問題に関する諮問を機に藩主・山内豊信(容堂)が吉田東洋を参政に起用して意欲的な藩政改革に取り組んでいました。そんな渦中、安政7年(1860年)33日井伊直弼が江戸城へ登城途中の桜田門外で、水戸脱藩浪士らの襲撃を受けて暗殺される「桜田門外の変」が起こり、事件が土佐に伝わると下士の間で議論が沸き起こり、たちまちのうちに尊王攘夷思想が土佐藩下士の主流となって行きました。

「壮年活動期」:以下参照

「海援隊創設メンバー」出典元:http://www.city.nagasaki.lg.jp/kameyama/outline/images/kaientai2.jpg

文久元年(1861年)江戸において武市半平太により土佐勤王党が結成されると、武市は土佐の戻り192名の同志を集めます。龍馬は9番目の同盟参加者でした。しかし激動のこの頃、藩内の動静は不穏を極め、龍馬も脱藩と帰藩を繰り返す中で、勝海舟の神戸海軍操練所開設に尽力、若手浪人を集めて海軍創設と海上交易による株式会社設立の構想を練り上げます。さらに1865(慶応元)年には薩摩藩の援助の下、長崎で亀山社中を設立。対立関係にあった薩摩・長州両藩を実利で結びつけ、66年薩長同盟が成立し、倒幕への大きな布石となっていきます。その後、亀山社中は土佐藩参政の後藤象二郎の尽力で、土佐藩づき商社であり、海軍教育施設としての海援隊へと結実していきます。また倒幕後に後藤と構想したものがいわゆる「船中八策」と呼ばれる新政府施策案で、後藤から土佐藩を通じて幕府に建白、意が通じるかのように67年に徳川慶喜による大政奉還を実現させていきます。しかし、その一月後、龍馬は日本の未来を見ぬまま凶刃に倒れます。暗殺犯については諸説あり、いまだ真実が不明のまま歴史の謎を生むことになります。


2「近江屋事件」

*近江屋について:以下参照

近江屋事件」の舞台となった京都河原町通の近江屋は、由緒ある醤油屋でした。店を営んでいたのは現在の四条河原町一帯に土地を持っていた名家・井口家で、幕末の井口新助の代に土佐藩の御用達となり、店の2階(井口邸)が龍馬らの滞在先となっていました。なお店としての近江屋は現在は存在しません。新助の子孫が昭和前期まで「近新商店」の名で醤油を製造していましたが、それも戦後に廃業しています。幕末当時に店を構えていた場所は、現在「坂本龍馬 中岡慎太郎 遭難之地」と記された石碑が建っている場所の北隣にあたります。

「近江屋跡近影/2017年」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/38/Oumiyaato-1.jpg/220px-Oumiyaato-1.jpg

事件勃発日時:18671210日/慶応31115

事件発生箇所:京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋井口新助

被害者:坂本龍馬・中岡慎太郎・山田藤吉

「墓所/東山霊山護国神社」出典元:http://www2s.biglobe.ne.jp/~soft-2/sa2-haka.JPG

経緯:以下参照

歴史的に残された証言記録や文献による時系列状況を記載します―

慶応31115日、午後5時頃、中岡は書店であった菊屋を訪れます。中岡は主人の息子である鹿野峰吉に手紙を渡し、錦小路の薩摩屋に持参して、返事は近江屋に持ってくるよう告げます。中岡は途中で土佐藩士の谷干城の下宿を訪れましたが、不在であったためそのまま近江屋に向かいます。午後7時頃、薩摩屋からの返書を持った峰吉が近江屋に到着します。その頃龍馬と中岡は何事か話し合っていましたが、峰吉が中岡に返書を渡した後、岡本健三郎が入ってきました。小半時ほど雑談した後、龍馬が腹が減ったと言い出し、峰吉に軍鶏を買いに行かせ、用事があった岡本も峰吉と同行しました。峰吉は四条小路の島新に向かい、軍鶏肉を購入して近江屋に戻ったのは午後9時頃でした。夜になり客が近江屋を訪れます。 谷干城が中岡から聞いた証言によれば、客は十津川郷士を名乗って龍馬に会いたいと願い出たと言われています。。応対に出た山田藤吉は、名刺を龍馬のもとに持っていき、藤吉は戻ってきたところで斬られます。後に、谷は藤吉は龍馬らが襲撃された八畳間で倒れていたと証言しています。一方、峰吉はこれに対して、藤吉が階段下で斬られていたことから、取り次いだ形跡はないとしています。また今井信郎刑部省の口上書において、午後9頃、松代藩士を名乗る客が応接を求め、4名が部屋に上がって行ったと証言しています

出典元:http://kamiitabashi.com/wp-content/uploads/14.jpg

藤吉が倒れ、大きな物音がすると、龍馬は「ほたえな!(土佐弁で「騒ぐな」の意)」と叫んだと言います。このあと二人の刺客が奥の八畳間に乱入、一人は龍馬の前頭部を横に払い、一人は中岡の後頭部を斬っています。龍馬は奥の床の間にあった刀を取ろうと振り返ったところを右の肩先から左の背中にかけて斬られました。龍馬は刀をとって立ち上がりますが、抜くには至らず、鞘のままで刀を受け止めました。しかし刺客の刀は鞘ごと刀を削り、龍馬の前頭部に致命傷となる大きな傷を与えました。龍馬は「石川(中岡の別名)、刀はないか、石川、刀はないか」と叫びつつ倒れます。 中岡は刀を屏風の後ろに置いており、刀を抜くこともできずに鞘のままで防戦しています。しかし最初の傷が深く、両手両足を斬られ、特に右手はほとんど切断されるほどでした。また臀部を骨に達するほど斬られていますが、中岡は死んだふりをしています。刺客は「もうよい、もうよい」と叫び、引き上げます。 間もなく気がついた龍馬は、刀を灯火にかざし「残念残念」と言い、「慎太、慎太、手は利くか」と言います。中岡が「手は利く」と答えると、龍馬は六畳間のところに行き「新助医者を呼べ」と命令します。それからかすかな声で「慎太、僕は脳をやられたからもうだめだ」と言い、昏倒しました。中岡は痛みをこらえ、裏の物干しに出て家人を呼びますが返答がなく、屋根を伝って北隣の道具屋井筒屋嘉兵衛の家の屋根で再び人を呼びますが返答はなく、そこに留まっています。

「中岡慎太郎」出典元:http://www2s.biglobe.ne.jp/~soft-2/sa4-nakaoka-1.JPG

凶行時、近江屋主人の井口新助は、妻子とともに一階の奥の間にいました。河原町通りを隔てた真向かいにあった土佐藩邸に知らせようとしましたが、見張りがいたため引き返しています。新助は妻子に落ち着いて声を立てないよう言い、裏口から土佐藩邸に向かいます。新助の連絡を受け、下横目嶋田庄作が駆けつけます。同じ頃、龍馬の遣いで軍鶏を買いに出ていた峰吉が戻ります。嶋田は周囲を警戒し、峰吉が室内を確認したところ、階下で倒れていた藤吉と、部屋で倒れている龍馬を発見しました。また井筒屋の屋根の上にいた中岡も発見されます。現場には犯人のものと思われる刀のが残されていました。続いて嶋田、新助、新助の弟新三郎、新助の妻と子が力を合わせて中岡を室内に戻します。その後土佐藩邸から曽和慎八郎が到着し、続いて陸援隊の谷干城毛利恭介が駆けつけますしかし龍馬はこのすでに事切れていました。更に土佐藩医師の河村盈進が到着し、中岡と藤吉に手当を行います。中岡は峰吉に、陸援隊に伝えるよう言い、峰吉は白川の土佐藩邸に向かいます。報を聞いて陸援隊士の田中光顕が薩摩藩の吉井幸輔をともなって駆けつけますさらに陸援隊士本川安太郎も駆けつけています。中岡はこの際、土佐藩らに襲撃された際の状況を伝えています。また隊士たちに後事を託し、鯉沼伊織(香川敬三)には岩倉具視への連絡を頼んでいます。また海援隊隊士の白峰駿馬らも現場に駆けつけたと言われています。藤吉は16日の夕刻に死亡中岡は1117日の夕刻に死亡しました。中岡は最後まで速やかな倒幕を訴えていました享年・龍馬33、中岡30、藤吉19


3「事件を取り巻く背景/寺田屋事件」

坂本龍馬は、そもそも穏健開国派と言われていましたが、幕末のこの時期は「尊王攘夷派」、「佐幕派か倒幕派」、「公武合体派」という色分けで把握できる単純な構造ではありませんでした。またそれぞれの派閥が一致団結して倒幕へ向けて戦ったわけでもなく、それぞれが個別の新政府構想と利害を考えて動いていました。穏健に改革を望む者と急激に改革を望む者が、状況状況で立場を変えていた、というのが実態でした。そのような中で、龍馬も状況に応じた対応をしたため、政敵を作ってしまったのではないかと類推されます。その上、暗殺事件が勃発する直前、寺田屋事件で役人を2人殺してしまった為に、殺人犯としても追われていた実情がありました。なお、寺田屋事件は「寺田屋騒動」と「寺田屋遭難」という二つの事件の総称としてとらえられています。

「寺田屋」出典元:https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/101338.jpg

エピソードA:「寺田屋騒動」

基本情報:以下参照

1862521日(文久2423日)に薩摩藩の事実上の指導者の島津久光が薩摩藩尊皇派を始末した事件を「寺田屋騒動」と言います。

藩兵千名を率い上洛した島津久光は日本中の尊王派の希望をその身に背負っていました。しかし久光にはこの当時は倒幕の意志はなく、公武合体の考え方が基本路線でした。また久光は秩序を重んじる厳しい性格で、すでに西郷隆盛、村田新八、森山新蔵を捕縛して、大阪から帰藩させるように命じて粛清しており、京都の志士の思惑とは全別のく考えの持ち主でした。413に伏見に到着した久光は、16日に入京し、朝廷より志士始末の命を授かります。 このことを知り驚愕した薩摩藩の過激派は、憂国の念から憤激し、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介らは、諸藩の尊王派志士、真木和泉・真木河内介らと共謀して、関白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃し、その首を持って久光に奉じることで、蜂起を促すということを決心します。そしてこの襲撃に際しては、根城としていた薩摩藩の二十八番長屋から出て、伏見の船宿寺田屋に集まることを計画します。志士暴発の噂を聞きつけた久光は、側近の大久保一蔵、海江田武次、奈良原喜左衛門を次々に派遣して説得を命じ、藩士を抑えようと試みますが失敗します。 さらに久光は、出奔した藩士を藩邸に呼び戻し勅旨今後の方針を説明して説得しようと考えますが、一方で従わぬ場合には上意討ちせよと言い含めて、奈良原喜八郎大山格之助道島五郎兵衛鈴木勇右衛門・鈴木昌之助山口金之進江夏仲左衛門森岡善助と言った、特に剣術に優れた藩士8名を鎮撫使に選び、派遣することにします

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Shimazu_Hisamitsu_%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E5%85%89.jpg/250px-Shimazu_Hisamitsu_%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E5%85%89.jpg

23日夜、寺田屋に到着すると、奈良原喜八郎ら4名は有馬新七に面会を申し出たますが、2階から橋口伝蔵に「いない」と言われて断られたので、江夏と森岡が力づくで2階に上がろうとして押し問答となります。結局、柴山愛次郎が応対して1階で面談することになり、有馬と田中謙助、橋口壮介が降りてきて議論に加わりますが、埒が明かず、薩摩藩士は藩邸に同行するように求めますが拒否されます。そこに大山ら4名が追いつき、論議に加わります。奈良原は説得を続けましたが、君命に従わぬのかと激高する道島が「上意」と叫んで抜打ちで田中謙助の頭部を斬り、これを口火に“同志討ち”の激しい斬り合いが始まります。 この戦闘によって、鎮撫使側では道島五郎兵衛が死亡、森岡善助が重傷、奈良原喜八郎、山口金之進、鈴木勇右衛門、江夏仲左衛門が軽傷を負います。残りの3名は無傷でした。志士側は、有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵の6名が死亡、田中謙助・森山新五左衛門が重傷を負いますが、この負傷者2名は後で切腹させられます。 この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策の実現(後の「文久の改革」)のため江戸へ向かいます。

 

 

「寺田屋女将お登勢」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/de/Otose.jpg/200px-Otose.jpg

エピソードB:「寺田屋遭難」

基本情報:以下参照

186639日(慶応2123日)京での薩長同盟の会談を斡旋した直後に、薩摩藩士として宿泊していた坂本龍馬を、伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件で「寺田屋遭難」とも言われています。

騒動当日、龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の捕り方30人に囲まれます。いち早く気付いたお龍は入浴中でしたが風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり、投宿していた龍馬らに危機を知らせます。捕り方は「奉行肥後守よりの上意」であると迫り、踏み込まれた龍馬らは「(奉行の権限の及ばない)薩摩藩士である」との嘘を主張しますが、捕り方に見破られます。龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で、三吉は手槍を用いて防戦し、捕り方2名を射殺、数名を殺傷させます。しかし拳銃を持つ手を捕り方が刀で払おうとして、龍馬は左右の手の親指を負傷。装弾ができなくなり、三吉が必死に槍で応戦する間に、お龍が裏木戸の漬物槽をどかし、辛くも裏木戸から家屋を脱出。路地を走り、材木屋に隠れます。三吉は切腹しようとしますが龍馬に止められて、伏見薩摩藩邸に救援を求めに行くように指示されます。薩摩藩邸にいた留守居役大山彦八は藩3名をつれて川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ます。すぐに京の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸輔が早馬で伏見に来て事情を調べ、西郷は軍医を派遣して治療に当たらせると共に、藩邸で警護させました。翌日、薩摩藩邸は龍馬に対する伏見奉行からの引き渡し要求を受けますが、これを拒否します

「お龍(楢崎」出典元:https://www.jp-history.info/wp/wp-content/uploads/2017/09/oryou.jp

この事件に新撰組が関わったとの説もありますが、伏見奉行が「肥後守」であったことから、同じ官位の京都守護職・松平肥後守と誤認されて、配下であった新撰組の関与が連想されたものと思われます。現在多くの資料で、間違いであるとされていますが、訂正古い書籍や資料文献では実行者として新撰組が登場します警護されていた龍馬はその後、伏見の藩邸から京の二本松藩邸に移りますが、再度伏見の藩邸に戻り、大阪から船で鹿児島に脱出します。そのしばらくの間は西郷隆盛の斡旋により薩摩領内に湯治などをしながら潜伏します。このお龍との旅行が、一般的には日本初の新婚旅行とされています。寺田屋遭難でお龍は龍馬の命を救いましたが、歴史の流れは、結局この騒動が龍馬の命を奪うことになっていきます。 *画像情報にある「寺田屋女将お登勢」はお龍の養母であり、多くの土佐藩士を支援した経緯もあり、寺田屋事件の重要な目撃者かもしれません・・・。

≪次ページパート2≫もご覧ください