歴史の謎に諸説あり/坂本龍馬暗殺首謀者

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4「首謀者の謎/諸説AE

「今井信郎」出典元:https://rekijin.com/wp-content/uploads/2017/11/3560e08362a3a84d581d77ff3c6f34f6-220×300.png

首謀者説A:「京都見廻組」

基本情報:以下参照

この「京都見廻組」説については、当時の取り調べ調書の数々が存在しており、かなり根強い論拠となっていますが、これをもって「京都見廻組」が犯人と断定するには疑問符が付く部分もありますが、その取り調べに関する情報を列記します。

見廻組隊士だった今井信郎は1869年(明治2年)に箱館戦争で降伏し、龍馬殺害について兵部省と刑部省によって取り調べを受けています。当時、坂本殺害について旧新選組隊士に関しても取り調べが行われていますが、いずれも者も新選組の関与を否定しています。その渦中で大石鍬次郎が見廻組が実行犯であると自供したため、今井も取り調べを受け、自供に至ることが起こります。このことは『勝海舟日記』の明治2415日条に松平勘太郎(松平信敏)に聞いた話として、今井が「佐々木唯三郎(只三郎)首トシテ」犯行に及んだことを自供したという記述があります。さらに、この記述中で勝海舟は、指示したものは「佐々木よりも上の人物、あるいは榎本対馬(榎本道章)か、わからない」と記述しています。

事実、1870年(明治3年)92日、今井は禁固刑」「静岡藩への引き渡しという判決を受けています。直接手を加えていないが龍馬殺害にかかわったこと、その後脱走して官軍に抵抗したことが罪状とされています。今井の証言をおさめた口上書は佐々木只三郎の指示により、佐々木、今井、渡辺吉太郎高橋安次郎桂隼(早)之助土肥仲蔵桜井大三郎の七人が近江屋に向かい、佐々木・渡辺・高橋・桂の4人が実行犯となって龍馬らを殺害したという具体的なもので。殺害の命令があった理由については、寺田屋事件の際に龍馬が同心二名を射殺したことをあげています。今井は京都見廻役小笠原長遠に命じられたとしていますが、小笠原は一切関知していないとしていますさらに昭和13年(1938年)には佐々木只三郎の子孫の依頼により、高橋一雄が『佐々木只三郎伝』を私家版で刊行していますが、この本では龍馬が大政奉還を主導した為に幕臣に恨まれ、佐々木が渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、土肥仲蔵、桜井大蔵、今井とともに龍馬を殺害したと記述しています。


「隊長近藤勇」出典元:https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024000678.jpg

首謀者説B:「新選組」

基本情報:以下参照

襲撃を受け二日後に死亡した中岡自身、「之はどうしても人を散々斬つて居る新選組の者だろう」と推測していたと言う供述が残っています。土佐藩重役寺村左膳も当日の日記に「多分、新撰組等の業なるべしとの報知也」と記しています。土佐藩の谷干城と毛利恭助は薩摩藩の中村半次郎の案内で、現場に残されていた鞘を薩摩藩邸に持参しており、これを見た御陵衛士の篠原泰之進内海次郎らが原田左之助のものであると証言しています。一方で田中光顕は鞘については、殺害の報を聞いて現場にやってきた伊東甲子太郎が鑑定し、新選組のものとわかったが、誰であったかは判然としないと回想しています。また谷は中岡の証言にある「声(訛り)」から、犯人は「中国から四国にかけてのであろう」と判定したとありますまた御陵衛士の阿部十郎は、「そうであるならば伊予の松山藩でありましょう」と答え、「声が似ている」ものとして伊予出身の新選組隊士原田左之助の名を挙げたとあります。ただしこれらの証言は明治中期以降に出てきたものであり客観的な信憑性に欠けます。これらの情報に基づき、土佐藩中枢部は犯行は新選組によるものだと判定し、幕府に対して告発を行っています。これを受けて1126日に幕府から取調べを受けた新選組局長近藤勇は関与を否定していますにも拘わらづ、世情では新選組が犯人であるという風評が強まり、当時はこれが有力な説と見られていました。大久保利通1119日付けの岩倉具視宛書状で「第一、近藤勇が所為と察せられ申し候」と述べています。また龍馬の義弟にあたる菅野覚兵衛も中岡の父に対しての書状で「敵は当時会津に属する新選組の者に極り候」と述べています


「三浦安」出典元:https://incidents-file.kogus.org/5/5b/Miura_Yasushi.jpg

首謀者説C:「紀州藩士」

基本情報:以下参照

海援隊隊士の陸奥陽之助(陸奥宗光)らは、海援隊と紀州藩の間に起こり、海援隊側の勝利に終わった訴訟「いろは丸事件」に対する、紀州藩士の恨みによる犯行であると考えていたと言われています。また谷干城の回想によれば、紀州藩公用人の三浦休太郎(三浦安)と新選組が共謀して起きたという噂が当時から出回っており、現場に残された鞘も紀州藩士がよく使うものであったと言われています。そのため、近江屋事件以降、三浦が海援隊隊士らに襲撃され、護衛を依頼されていた新選組との間に戦闘が起こる「天満屋事件」が現実に発生しています。


「大久保と西郷」出典元:https://tk.ismcdn.jp/mwimgs/5/7/1140/img_579257bd5bf1f6c3a5c493ac3a39667a339343.jpg

首謀者説D:「薩摩藩」

基本情報:以下参照

西郷隆盛、大久保利通らを中心とする薩摩藩内の武力倒幕派による陰謀だとする根強い説が存在します。薩摩藩説の動機で取り上げられるものは、松平春嶽勝海舟から影響を受けた龍馬は諸侯会議による新政府の設立を説いており、大政奉還を受け入れた徳川慶喜をそこに含めることを想定していました。そのため、武力倒幕と旧権力の排除を目指していた西郷隆盛と、新体制への穏健な移行を説いていた龍馬との間に、慶喜の処遇をめぐる意見の相違が生じます。そのため大政奉還派である龍馬が邪魔になったというもので。この武力倒幕派の暗躍という説は、佐々木多門の書状などが残されており、有力な論拠となっていますまた、この説は実行犯が見廻組とした場合でも、薩摩藩が情報を与え、行動を示唆したという線で唱えられています。今井信郎が西郷によって助けられたという風聞が当時から存在し、また今井自身も西南戦争で西郷の救援に向かおうとしたという、今井の息子の証言が存在します。しかし龍馬自身が幕府大目付である永井尚志と談合するなど憚りのない行動を取っており、それを周囲に警告されているような状態では、たとえそのような情報は無くとも京都見廻組が龍馬の所在を難なく突き止められたであろうと考えられるのも事実です。また中岡慎太郎も武力倒幕派であり、薩摩藩家老である小松清廉も大政奉還を慶喜に迫っているなど様々な矛盾が生じる部分もあります。そのため、大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあるというのが、薩摩藩説の歴史学上で統一見解となっています


「トーマス・グラバー」出典元:http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0209/glover/ph/glover.jpg

「ハリー・パークス」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/be/HSParkes.jpg/220px-HSParkes.jpg

「アーネスト・サトウ」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0e/YoungSatow.jpg/200px-YoungSatow.jpg

首謀者説E:「外国人による陰謀」

基本情報:以下参照

多少うがった説ですが、当時の時代背景からしてありえない想定とは言い難い陰謀説です。それは武力倒幕により、薩長倒幕側に武器の売り込みを狙った企業体・ジャーディン・マセソン系のイギリス人・トーマス・ブレーク・グラバー、外交官ハリー・パークス、アーネスト・サトウらにより仕組まれた陰謀であるとの説です。 グラバーは長崎を拠点として活躍した商社の経営者、パークスは辣腕の外交官、アーネストは当時の日本の外交政策に同行して世界中を飛び回った通訳という、人々ですが彼等が龍馬暗殺に深くかかわっていた歴史的資料や文献を探ることはできません。ただ、三者はいずれも当時の混沌とした時勢の中で、その後の日本の運命を左右する人々と多様に交流していたことは事実であろうと思われますし、その経緯は非常に興味深いものがあります。

参考サイト一覧―

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