日本三大奇橋

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日本三大奇橋

名所の中でも摩訶不思議なものには、一寸首をひねります。こんなところに何故、こんなものを造ったのか。そこでご案内します「日本三大奇橋」情報です。

≪ノミネートリスト≫

1「山口・錦帯橋」

2「山梨・猿橋」

3「富山・愛本橋」

*三奇橋を称する橋には、神橋栃木県大谷川)、愛本橋富山県黒部川、*非現存)、木曽の桟(長野県)、錦帯橋(山口県岩国市)、かずら橋徳島県祖谷)、猿橋(山梨県)があり、上記三橋を選定しています。


1「山口・錦帯橋」

公式サイト:http://kintaikyo.iwakuni-city.net/

参考サイト:http://kintaikyo-bridge.jp/

出典元:http://kintaikyo-bridge.jp/wp-content/uploads/2018/01/gaiyou-2.jpg

出典元:http://kintaikyo.iwakuni-city.net/tech/images/tech1_2.jpg

「側面図」出典元:http://kintaikyo.iwakuni-city.net/tech/images/tech1_5.jpg

「アーチ部材組立」出典元:http://kintaikyo.iwakuni-city.net/tech/images/tech2_2.gif

1952年の架橋替工事」出典元:http://kintaikyo.iwakuni-city.net/tech/images/tech2_5.jpg

架橋される河川:「岩国川/錦川」

奇橋の謂れ:以下参照

錦帯橋は、山口県岩国市の錦川にかかる珍しい5連の橋です。日本三名橋に数えられ、豊かな自然を背景として、国の名勝に指定(上流・下流を含む地域)されています。1673年「流されない橋を」との願いのもと、知恵と技術の結集により創建されました。川幅約200mを渡すその構造は、精巧かつ独創的。そして美しい姿を誇ります。創建以来340余年を超えて、錦帯橋の技術と美しさは、今もなお守られ続けています。

創建年:1673

「三代目岩国藩主・吉川広嘉」出典元:http://kintaikyo-bridge.jp/wp-content/uploads/2018/01/history-3.jpg

建造の歴史概要:以下参照

関ヶ原の戦いで敗れた西軍に属していた吉川家は、出雲国等14万石から岩国3万石へ移封となりました。まだ、いつ戦になってもおかしくない緊迫した時勢です。初代領主・吉川広家は横山を政務の中心に定めます。それは錦川を挟んで山を背負う地形が、防衛にも有利だったからです。錦川により分断された城下町を繋ぐため、早くから橋が架けられました。しかし洪水の度に橋は流失していました。やがて幕藩体制が整い、平和な時代が訪れると「流されない橋」を架けることが、岩国領の悲願になりました。3代領主・広嘉は橋の研究に取り組みますが、解決策は容易には見つかりません。ある時、広嘉は明の僧・独立から、名勝・西湖の本を入手します。そこには、5つの小島を繋ぐ6つのアーチ橋が描かれていました。これにより広嘉は錦帯橋の着想を得たと伝わります。それは、錦川に4つの橋脚を築き、それらを5つの橋によって繋ぐというもの。これの実現のため、戦国の世に培われた土木・建築技術に加えて、更なる研究が重ねられました。そして1673年、着想と技術が実を結び、錦帯橋は創建されました。

建造情報:以下参照

5連の構造(中央の3連はアーチ橋)という、世界的にも大変希な構造です。これは「流されない橋を作りたい」という先人たちの 情熱と、独自に発展した架橋技術によって生み出されたもので現代においても、その技術は極めて高く評価されています。錦帯橋は5つの木造の橋が連なる構造です。その内、中央3連は、迫持式(せりもちしき)といわれるアーチ構造で、両端の2つの橋は反りを持った桁橋構造です。

*「平成の架け替え工事に関する工事概要」:以下参照(全18頁)/*岩国市編纂

参照サイト:http://kintaikyo.iwakuni-city.net/tech/rebuild.pdf

通行関連料金:

所在地:741-0062 山口県岩国市岩国

問合せ:0827-29-5107岩国市 錦帯橋課 

*錦帯橋年譜:以下参照

1600 慶長 5

関ヶ原の戦い吉川広家、岩国付近3万石を拝領

1664 寛文 4

吉川広嘉が『西湖遊覧志』をみて、錦帯橋のアイデアを得る

1673 延宝元

錦帯橋の創建

1674 延宝 2

洪水により流失再建

1677 延宝 5

錦帯橋周辺の河床に捨石をして、敷石を補強

1699 元禄12

現存する最古の図面が描かれる

1871 明治 4

廃藩置県

1922 大正11

国の名勝の指定を受ける

1943 昭和18

名勝区域の追加指定を受ける

1950 昭和25

キジア台風により錦帯橋流失

1951 昭和26

昭和の再建開始(1953年 昭和28年 完了)

2001 平成13

「平成の架替」開始(2004年 平成16年 完了)


2「山梨・猿橋」

参考サイト:http://otsuki-kanko.info/category/content-page/view/31

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E6%A9%8B

出典元:http://otsuki-kanko.info/uploads/1172_1509178387.jpg

出典元:http://otsuki-kanko.info/uploads/img_1434_1509178501.jpg

出典元:http://otsuki-kanko.info/uploads/dsc0723211_1509178406.jpg

「六十余州名所図会 甲斐さるはし」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4d/Hiroshige_Kai_Saruhashi.jpg/800px-Hiroshige_Kai_Saruhashi.jpg

架橋される河川:「桂川」

奇橋の謂れ:以下参照

日本三奇橋のひとつで、広重の「甲陽猿橋之図」や十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などにその珍しい構造が描かれています。長さ30.9m、幅3.3m、高さ31mのその姿は、橋脚を全く使わない特殊なもので、鋭くそびえたつ両岸から張り出した四層のはねぎによって支えられています。猿橋の珍しい構造の起源は定かではないですが、西暦600年ごろ百済からやって来た造園博士の志羅呼(シラコ)がなかなかうまくいかず難航していた橋の建設の最中に、沢山の猿がつながりあって対岸へと渡っていく姿からヒントを得、ついに橋を架けるのに成功したと言われています。猿橋の名前の由来もそんなところからつけられたそうです。

創建年:1984年(*江戸時代の復元)

建造情報:以下参照

江戸時代には「日本三奇橋」の一つとしても知られ、甲州街道に架かる重要な橋でした。猿橋は現在では人道橋で、上流と下流にそれぞれ山梨県道505号小和田猿橋線国道20で同名の新猿橋があります。長さ30.9メートル、幅3.3メートル、水面からの高さ31メートル。深い谷間のために橋脚はなく、鋭くそびえたつ両岸から四層に重ねられた「刎木(はねぎ)」とよばれる支え木をせり出し、橋を支えています。 所在する猿橋町猿橋は桂川とその支流・葛野川の合流地点の付近に位置し、一帯は甲斐国と武蔵国相模国の交通拠点です。江戸時代には猿橋村が成立し、甲州街道の宿駅である猿橋宿が設置されていました。猿橋が架橋された年代は不明ですが、地元の伝説によると、古代・推古天皇610年ごろ(別説では奈良時代)に百済渡来人で造園師である志羅呼(しらこ)が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説があり、「猿橋」の名は、この伝説に由来します室町時代には、『鎌倉大草紙』によれば関東公方足利持氏が敵対する甲斐の武田信長を追討し、持氏が派兵した一色持家と信長勢の合戦が「さる橋」で行われ、信長方が敗退したと言われています文明19年(1487)には聖護院道興廻国雑記』において、道興が小仏峠を越えて当地を訪れ、猿橋の伝承と猿橋について詠んだ和歌漢詩を記録していますまた戦国時代には、『勝山記』永正17年(15203月に都留郡の国衆小山田信有(越中守)が猿橋の架替を行っていて、この信有による架替は小山田氏の都留郡北部への支配が及んだ証拠とも評価されています。猿橋は天文2年(1533)にも焼失し、天文9年(1540)に再架橋されています

『勝山記』によれば、大永4年(1524211日に甲斐守護・武田信虎は同盟国である山内上杉氏の支援のため猿橋に陣を構え、相模国奥三保(神奈川県相模原市)へ出兵し相模の北条氏綱と戦い、「小猿橋」でも戦闘があったと言います。戦国期に小山田氏は武田氏に従属し、『勝山記』によれば享禄3年(1530)正月7日に越中守信有は当地において氏綱と対峙していました。『勝山記』によれば、留守中の3月には小山田氏の本拠でる中津森館都留市中津森)が焼失し、423日に越中守信有は矢坪坂の戦い(上野原市大野)において氏綱に敗退。また、猿橋には国中の永昌院(山梨県山梨市矢坪)の寺領も存在していました。明治期には富岡鉄斎1875(明治8年)と1890(明治23年)に山梨県を訪れ、鉄斎は甲府の商家・大木家などに滞在しており、大木家資料(大木コレクション)には「甲斐猿橋図」が残されています。また1932昭和7年)3月に国の名勝に指定されました。名勝に指定された当時、橋の所在地であった大原村が、管理に手がかかるため所有を拒否したため、猿橋はどこにも管理されていない無所属の状態であり、修理に必要な国の補助金が受けられない状況が続きましたが、1963年(昭和38年)になって大月市の所有に決定し現在に至っています

通行関連料金:自由通行

所在地:409-0614 山梨県大月市猿橋町

問合せ:0554-20-1829大月市産業観光課


3「富山・愛本橋」

参考サイト:https://www.info-toyama.com/spot/51015/

参考サイト:http://www2.kanazawa-it.ac.jp/honda/aimoto2.html

「過去の愛本橋」出典元:http://www2.kanazawa-it.ac.jp/honda/aimoto_2_11.gif

「過去の構造モデル」出典元:http://www2.kanazawa-it.ac.jp/honda/aimoto_2_15.gif

「現在の愛本橋」出典元:https://www.info-toyama.com/image.php?w=366&p=.&f=/db_img/cl_img/51015/7a8fdfede9944879364c3be6f447ca04.jpg

出典元:https://www.info-toyama.com/image.php?h=164&p=.&f=/db_img/cl_img/51015/82b4e399d5a121b1f1418a8cd80f99ad.jpg

架橋される河川:「黒部川」

奇橋の謂れ:黒部川中流に架かる景色がきれいな橋で、かつては全長63mにも及ぶ刎橋(はねばし)であったため「山口県錦川・錦帯橋」、「山梨県桂川・猿橋」と並び日本最大奇橋の一つと言われてきました。

創建年:愛本橋は古くから黒部川の渡河点として、交通の要地で、寛文3年(1662)に加賀三代藩主前田綱紀の英断によって初めて架橋されまし

建造情報:現在の橋は1969年の豪雨で流失したものを掛け替えた12代目となります。北陸新幹線開業へ向けて、旧愛本橋(刎橋)の復元検討され、愛本刎橋を一部復元した模型(縮尺1/2)が、黒部市歴史民俗資料館に常設展示されています。

全長:130m

幅員:8.6m

通行関連料金:自由通行

所在地:938-0861富山県黒部市宇奈月町下立682

問合せ:0765-65-1010 (うなづき友学館) (0765)54-2111() 宇奈月市民サービスセンター