最新世界遺産登録・詳説/潜伏キリシタン

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最新世界遺産登録・詳説/潜伏キリシタン

前回見送られた長崎のキリシタンの歴史的遺産が2018年度、ついに登録決定となりました。現在も脈々と伝承の歴史を重ねる、厳かな軌跡を訪ねます。ご紹介します「最新世界遺産登録・詳説/潜伏キリシタン」情報です。

≪インデックス≫

1「その始まり」

  11「原城跡」

2「形成期」

    21「平戸の聖地集落(春日集落と安満岳)」

       22「平戸の聖地集落(中江ノ島)」

       23「天草の崎津集落」

       24「外海の出津集落」

       25「外海の大野集落」

3「維持拡大期」

      31「黒島の集落」

      32「野崎島の集落」

      33「頭ヶ島の集落」

      34「久賀島の集落」

4「変容と終了」

      41「奈留島の江上集落」

      42「大浦天主堂」

≪備考≫

      参考サイト:http://kirishitan.jp/
      参考サイト:http://kyoukaigun.jp/
      参考サイト:https://allabout.co.jp/gm/gc/475230/
      参考サイト:http://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/840000/842000/index.html
      参考サイト:https://christian-nagasaki.jp/
      参考サイト:http://arukuecotour.com/?page=1&cid=65
      参考サイト:http://oratio.jp/

はじめに≫

出典元:http://img-cdn.jg.jugem.jp/62a/2702715/20140919_714360.jpg

毎年夏に開催されている世界遺産委員会は今年2018年もバーレーンのマナマで624日~74日の日程で開催され、新たな世界遺産が誕生しました。日本の物件としては「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が日本の18件目の文化遺産、22件目の世界遺産となりましたこの物件はもともと「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」という名称で2015年に推薦されていましたが、文化遺産の調査・評価を行っているイコモス(ICOMOS国際記念物遺跡会議)から「禁教・潜伏に重点を置くべき」という指摘を受け、登録が難しくなったことから翌年推薦を取り下げていました。その後イコモスとアドバイザー契約を結んで助言を受け、テーマを禁教・潜伏に移すとともに構成資産の力点を教会から集落に変更し、隠された家々や墓地、マリア観音を祀った神社、解禁後に建てられた和洋折衷の教会堂など集落10件、城跡1件、教会堂1件の12件をまとめて20171月に再推薦を行い、今回の登録にこぎ着けた経緯があります。


1「その始まり」

11「原城跡」

「原城跡航空写真」出典元:https://christian-nagasaki.jp/assets/img/stories/6-1.jpg

「点在する城壁石」出典元:http://kyoukaigun.jp/visit/img/s2_13image1_20140329164714.jpg

インフォメーション:以下参照

原城は日野江城の支城で、約3km離れた海岸の小高い丘に位置します。居城である日野江城を上回る規模で海を背にした堅固な造りでした。しかし徳川幕府が禁教を強める中、有力なキリシタン大名であった有馬晴信は、岡本大八事件をきっかけに1612年に斬首され、その後、原城は廃城となる歴史を辿りました。その存在に再び脚光を浴びるのは、島原天草の乱で。島原・天草両地区で圧政が続く中、台風や日照りで餓死者が続出、農民やキリシタンらの怒りが頂点に達し、163716歳の天草四郎を総大将として住民が一斉蜂起しました。当初は一揆勢が優勢でたが、やがて守勢に転じ、天草勢も加わり3万人余の一揆勢力は原城に籠城します。幕府軍は12万人で取り囲みましたが、守りが堅固で何度も攻撃に失敗し、鎮圧に成功したのは4ヵ月後でた。一揆勢は、寝返った山田右衛門作を除いてすべて殺され、数千人の首が現地でさらされ、天草四郎ら指導者4人は長崎の出島でさらし首になりました。城は徹底的に破壊され、一揆勢の無数の遺体が埋められたと記されています。幕府は、この乱を機に禁教を徹底する一方、民心の安定にも配慮するようになります。島原では年貢の過酷な取り立てを行った松倉氏は斬首され、その後を治めた高力氏は、1年間の年貢免除や瀬戸内地方からの移民受入れなどで、島原の復興を担って尽力しました。現在島原で盛んなそうめんの製造は、この時に小豆島などからの移住者が持ち込んだと言われています1938年、原城跡は島原天草の乱の舞台として、国の史跡に指定され最近の発掘調査で無数の人骨とともに、鉄砲玉を鋳つぶして作った十字架などが大量に出土しています

関連住所:長崎県南島原市南有馬町乙

問合せ:0957736606(南島原市役所南有馬庁舎)

*関連人物「有馬晴信」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E4%BF%A1

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3f/Arima_Harunobu.jpg/200px-Arima_Harunobu.jpg

インフォメーション:以下参照

安土桃山時代のキリシタン大名で肥前国(長崎県)高来郡日野江城(原城)の城主。有馬義貞(1521―1576)の次男で初名を鎮純、のち鎮貴、久貴、久賢、正純と変名し、従五位下修理大夫に叙任されます。1571年家督を相続し、1580年巡察使バリニャーノから洗礼を受け、プロタジオと称します。キリスト教を非常に保護したため、領地内に教会が各所に設置され、セミナリオ(初等教育学校)が開かれました。また南蛮船が領内の口之津港に入港しました。1582年ローマ教皇への少年使節として従兄弟の千々石ミゲルを派遣します。また1584年龍造寺氏から攻撃を受けたので、その援助をイエズス会に求め、勝利の代償として浦上の地に(長崎市)を教会に寄進しました。豊臣期には秀吉の九州統一に従い、高来郡4万石を安堵されましたが、浦上領は秀吉の直轄領となります。1587年の宣教師追放令に際しては、宣教師が有馬領内に難を逃れてきてコレジオ(高等教育機関)が設立され、また活字印刷機をもとに「日本イエズス会版」が刊行されています。文禄・慶長の役では小西軍に従軍しましたが、関ヶ原の戦いでは、のち東軍に属して所領安堵されています。1608年徳川家康の命でインドシナの占城(チャンパ)に渡航しましたが、帰途マカオで乗船員が殺害されたので、復讐として翌1609年長崎港でポルトガル船ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(旧名、マードレ・デ・デウス号)を焼き討ちにします。その功で旧領(肥前六郡)回復を図りますが、かえって本多正純の家臣岡本大八の奸策(かんさく)にかかり、1612年所領を没収されます。甲斐国(山梨県)に移され、同年56日斬首され生涯を閉じますが、この事件を契機に幕府はキリシタン弾圧政策を強く打ち出していきました。なお、子直純(1586―1641)は許され遺領を継ぎ、のち日向国(宮崎県延岡市)に転封されました。

*関連人物「天草四郎」

参考サイト:http://r-ijin.com/tag/%E5%A4%A9%E8%8D%89%E5%9B%9B%E9%83%8E/

出典元:http://r-ijin.com/wp-content/uploads/2016/09/20090906_111240329s-246×200.jpg

インフォメーション:以下参照

島原・天草一揆で一揆側の首領とされた少年です。父の姓から益田四郎、居住地にちなんで江辺四郎、大矢野四郎、一揆の首領としては天草四郎太夫時貞、天の四郎秀綱、洗礼名はジェロニモと言われますが、経歴を含めて正確なことはほとんど不明で。父益田甚兵衛好次(?―1638)は、天草大矢野の生まれで、領主小西行長に仕えましたが、関ヶ原の戦いで改易されたので宇土郡江辺村で帰農した牢人でした。姉が大矢野村の庄屋の弟に嫁いでおり、江辺生まれの四郎9歳で手習いを始め、以後学問のために長崎に赴いており、一揆勃発後江辺で捕らえられた母親などの申立てからすれば、身分の割りに四郎はかなり恵まれた境遇のなかで、抜群の教養を身につけていたと思われます四郎の名は一揆勃発の時点から中心人物として領主側に把握されていますが、実際に軍事上の指揮をしたとは考えにくい状況があります。四郎の原城入城は1637年(寛永14123日と言われ、翌163822728日の総攻撃で全員虐殺されるまでの約4か月間、籠城した2万人老幼男女は、10余万の幕府諸大名軍を相手に、信仰による結束を崩さなかったと記されており、四郎の首領としての非凡な資質は否定できないとも評されています。多くの首のなかから熊本藩士陣野佐衛門がとった首が四郎のものとされ、長崎に送られて晒し首にされたと言われています


2「形成期」

21「平戸の聖地集落(春日集落と安満岳)」

出典元:http://kyoukaigun.jp/visit/img/s2_6image3_20150315125039.jpg

インフォメーション:以下参照

大航海時代にアジアに進出したポルトガル船は1550年に平戸に到達します。その情報を得たフランシスコ・ザビエル一行は薩摩から平戸に移り、領主の許可を得て布教を始め、その結果、生月島を含む平戸一帯で信者は約5,000人に達します。その後、禁教の時代を迎え、多くは棄教しましたが生月島や平戸島西岸などでは信仰を守る信者がいました。彼等は潜伏キリシタンと呼ばれ、神父不在の下で秘密の信仰組織を運営し、オラショ(祈り)を唱え、納戸に隠したキリストや聖母マリアの絵を拝みました。また、彼等は山や島を聖なる場所として崇敬します。かつて信者が処刑された中江ノ島は、聖地「サンジュワン様」と呼ばれ、その島の水は聖水とされています。安満岳には神社仏閣があり、キリスト教徒と鋭く対立しましたが、禁教時代には神仏信仰と並存するようになってキリシタンの聖地ともなります。かつて1561年に教会が建てられた春日集落は、現在でも潜伏キリシタンが多く、安満岳山頂に参詣道が続いています。これら中江ノ島、安満岳、春日集落が2018世界遺産「平戸の聖地と集落」で、また2010年に「平戸島の文化的景観」として国の重要文化的景観に選定されました

関連住所:長崎県平戸市春日町(春日集落)、主師町(安満岳)、下中野町(中江ノ島)

問合せ:平戸市役所観光課0950224111

*関連情報「春日集落」

「春日集落」出典元:http://kyoukaigun.jp/visit/img/s2_6image1_20140326122412.jpg

インフォメーション:以下参照

春日集落はそもそも籠手田氏の所領で、1561年にはアルメイダ修道士が訪れて教会を建て「清浄で荘厳な場所にあり、海陸の眺望が美しい」と記されています。1599年、平戸地方の領主であった平戸松浦氏がキリスト教を禁じたため、籠手田氏は平戸島から退去します。1614年に江戸幕府による全国的な禁教令が出た後も宣教師はしばらく国内に潜入し、ひそかに平戸を訪れていましたが、1622年にカミロ・コンスタンツォ神父が殉教して以降、この地を訪れる宣教師はいなくなります。宣教師が不在となる一方で、春日集落では「」の指導者を中心として共同体が維持され、この共同体を基としてひそかに信仰が続けられました。禁教期の春日集落では、潜伏キリシタンが2つの共同体を維持し、指導者を中心として独自に信仰を続ける方法を模索した記録があります。指導者の住居には仏壇や神棚があるほか、潜伏キリシタンの信心具納戸神)を「納戸」と呼ばれる部屋に隠し、屋外では、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場であった安満岳を拝んだと言います。このようにして教徒は潜伏キリシタンとして信仰を守り、棚田で米を生産して生計を維持しました。海から山にせり上がる棚田や家屋配置、道などは江戸時代のまま現在に伝わっています。なお春日集落は明治期に入っ禁教解除後も潜伏時代の信仰を維持する「かくれキリシタン」が多数いましたが、近年では過疎化により組織的な行事は途絶えている状態に陥っています

*関連情報「安満岳」

参考サイト:http://hirado-net.com/sekaiisan/2017/08/10/%E3%81%8A%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9/

「参道入口」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset02_img05.jpg

「安満岳山頂の眺望」出典元:https://i0.wp.com/hirado-net.com/sekaiisan/wp-content/uploads/2017/08/1111-017.jpg?resize=300%2C225

インフォメーション:以下参照

安満岳は平戸島の最高峰(標高534m)で、山頂には白山権現と西禅寺がありましたが、当時、仏教勢力とキリスト教とが鋭く対立し、仏像を燃やされたことを領主・隆信に訴えてヴィレラ神父を国外追放すると、逆に籠手田氏の進言で仏僧の首領が所領を追放されました。禁教時代に神仏信仰との並存が行われると、この山はキリシタンの聖地ともなり、神寄せのオラショに出てくる「奥の院様」は薩摩塔を指すと考えられています。麓の春日集落からの参詣道もあります。


22「平戸の聖地集落(中江ノ島)」

「中江ノ島」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset02_img09.jpg

「お水取り」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset02_img10.jpg

インフォメーション:以下参照

平戸島北西岸の沖合2kmに位置する中江ノ島は、東西約400m、南北約50m、標高34.6mの無人島で、禁教初期に平戸藩によるキリシタンの処刑が行われた記録が残されています。は、春日集落など平戸西海岸の潜伏キリシタンが殉教地として拝んだ場所であり、岩からしみ出す聖水を採取する「お水取り」の儀式を行う重要な聖地でした。 平戸には信者の殉教にまつわる聖地がいくつもありますが、信仰が強く浸透していた生月島の信者にとっての最大の聖地は、島の東に浮かぶ無人島・中江ノ島です。1613年の慶長の禁教令で宣教師はすべて国外追放されましたが、そのあとも日本へ潜入して布教を試みる宣教師が多くいました。カミロ・コンスタンツォ神父はその1人で、1622年にひそかに潜入し平戸や生月島で布教していました。しかし神父はまもなく捕らえられて火あぶりの刑に処されます。その後、神父に手を貸した生月島の信者も捕らえられてしまいました。彼等は中江ノ島で処刑されることになり、処刑場にむかう船中では賛美歌を歌いながら自ら櫓を漕いだ者もいたと記されています。殉教すれば天国へ行けるという教えがあったからです。この島には、ほかにも一緒に昇天できるよう兄弟3人で俵につめられた上で縛られ、海に投げ込まれた子どもたちの話など、さまざまな殉教の話が伝承されています

関連住所:長崎県平戸市春日町(春日集落)、主師町(安満岳)、下中野町(中江ノ島)

問合せ:平戸市役所観光課0950224111

*「カミロ・コンスタンツォ神父」

「神父殉教碑」出典元:http://oratio.jp/cms/wp-content/uploads/yaiza-660×370.jpg

インフォメーション:以下参照

ナポリ出身のイエズス会宣教師カミロ・コンスタンツォ神父は一度1614年の追放令でマカオに追放されます1621年に再び日本に戻り、生月島、宇久島などで布教活動を続け、宇久島で捕縛され平戸で殉教を遂げます。カミロ神父の処刑の様子は、平戸にいたイギリスやオランダ船の船員たちも見ていたという記録が残されています。現在、火刑によって殉教した場所に神父の鎮魂を込め、焼罪史跡公園が造られ、公園からは平戸瀬戸を挟んで、平戸城や平戸ザビエル記念教会も見ることができます。しかし重要なことはこの殉教を境に、宗門改奉行がおかれ定期的な絵踏みによって領民の宗教が厳しく管理されるようになります。またそのことと歩調を合わせるように、キリシタンたちは表向きだけ改宗を装い「潜伏キリシタン」としての強烈な信仰心を加速して行きました。

≪次ページパート2≫もご覧ください

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