最新世界遺産登録・詳説/潜伏キリシタン

Pocket

34「久賀島の集落」

「マリア観音」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset10_img04.jpg

「五輪集落」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset10_img07.jpg

「旧五輪教会堂」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset10_img06.jpg

インフォメーション:以下参照

久賀島は五島列島の南部に位置し、北側から中央部に向かって湾入する久賀湾を中心とし、その周囲に山がちの地形が馬蹄形に取り囲む周囲約52kmの島である。潜伏キリシタンが開拓移民政策に従って開拓した水田、仏教徒と協働で行う漁網の巻き揚げ作業の場となったロクロ場跡、潜伏キリシタンの墓地、「信徒発見」後の弾圧の場、解禁後に建てられた教会堂やその跡があります。五島列島における本格的なキリスト教の宣教は、1566年にイエズス会宣教師アルメイダにより久賀島の南側に隣接する福江島で始まりました。久賀島での宣教を直接的に示す記録はありませんが、北側に隣接する奈留島には17世紀初頭にすでにキリシタンがいたことを示す記録があることから、16世紀後半から17世紀初頭にかけて福江島と奈留島に挟まれた久賀島にもキリスト教が伝わった可能性が高いと思われます。18世紀頃には徹底した禁教政策により五島列島におけるキリシタンはいったん姿を消したものと考えられています。この頃の久賀島の状況を記した文書によると、当時の久賀島の人口は456人であり、久賀、大開、猪之木、市小木、蕨などの地が記されており、これらはすべて農業に適した平地に立地する集落でした。一方、海浜には島の玄関口であった田ノ浦のほか、塩作りを行う窯百姓がいた深浦などの漁村集落があり、集落住民はすべて仏教徒で、田ノ浦集落に置かれた五島藩の代官所(後に、久賀集落に移設)の管轄下にありました。 大村藩から五島藩への農民移住協定が成立した1797年以降、五島列島の各地に「居付」と呼ばれる開拓農民の集落が形成されますが、その多くは潜伏キリシタンの集落でした。久賀島では代官所の容認のもとに、既存の仏教集落の縁辺部である永里、内上平、外上平や、仏教集落から隔絶した場所である五輪、細石流に潜伏キリシタンの移住集落が形成され、各集落には禁教期から続く潜伏キリシタンの墓地が今も残っています。潜伏キリシタンの移住先はすべて農業に適さない土地であり、自力で開墾するには移住者の数が不足していたため、潜伏キリシタンは仏教徒の水田の隣に新たな水田を開いたり、仏教徒が行う農漁業などにともなう各種の作業を協働で行ったりするなど、仏教徒である島民との間に何らかの互助関係を築きながら生活・生業を営みました。このように仏教集落の住民と互助関係を築く一方で、集落ごとに指導者を中心とする共同体を維持し、ひそかに潜伏キリシタンとしての信仰を続けます。永里集落では潜伏キリシタンの指導者が代々継承した中国製の白磁の観音像を聖母マリア像に見立てた「マリア観音」にひそかに祈りをささげたと言います。1865年に大浦天主堂で宣教師と潜伏キリシタンが出会った「信徒発見」をきっかけに、各地の潜伏キリシタンの指導者がひそかに大浦天主堂の宣教師と接触を開始し、久賀島の潜伏キリシタンの指導者もひそかに接触して、信仰を告白するとともに教理の指導を受けました。この宣教師との接触をきっかけに久賀島の潜伏キリシタンは公然と自らの信仰を表明するようになったため、1868年に五島列島一円で「五島崩れ」と呼ばれる大規模な摘発事件が起こり、狭い牢屋に多数の信徒が監禁され、多くの死者を出した「牢屋の窄事件」が起き、1873年の解禁直前の最後の弾圧現場となります。事件が起きた場所には殉教者を弔うための教会堂と記念碑が建てられ、16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰した久賀島の信徒にとって今なお禁教期の記憶の場所となっています。解禁後、久賀島の潜伏キリシタンはカトリックへと復帰し、浜脇、永里、細石流、赤仁田の各集落には教会堂が建てられ、それは久賀島の各集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴しています。なお、久賀島で初めて建てられた初代浜脇教会堂は、久賀島の東岸にある五輪集落に移築され、旧五輪教会堂として現存しています。

関連住所:長崎県五島市蕨町993−11

問合せ:潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター 0958237650

*「旧五輪教会堂」

出典元:http://oratio.jp/cms/wp-content/uploads/2014/04/01_kyugorin_-660×370.jpg

インフォメーション:以下参照

五島列島南部の久賀島にある教会堂です。久賀島には18世紀末から大村藩から入植があり、その中に外海地方出身の潜伏キリシタンが含まれていたことから、潜伏キリシタンの集落が形成されました。1865年の大浦天主堂における「信徒発見」の後、久賀島の潜伏キリシタンも大浦天主堂を密かに訪れて宣教師と接触しました。久賀島で最初の教会堂は、1881年に建設された浜脇教会、その後この建物を引き継ぐことを切望したかつての潜伏キリシタンの集落であった五輪集落に寄贈され、1931年に現在の場所に移されました。1985年には五輪集落に新しい教会堂が建設されましたが、「旧五輪教会堂」として現在もなお維持されています。小規模な木造の建物で、外観に民家の形式をのこした、装飾の少ない礼拝空間をもつ初期の教会建築の代表例で


4「変容と終了」

41「奈留島の江上集落」

「奈留島の江上集落」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset11_img01.jpg

「江上天主堂」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset11_img03.jpg

「天主堂内」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset11_img04.jpg

インフォメーション:以下参照

奈留島は五島列島の中部に位置する島で、複雑な海岸線と急斜面の山腹により形成されています。江上集落は奈留島の北西部の西海岸にわずかに開けた迫地形に立地し、江上天主堂は迫地形の南斜面に平坦地を造成して建てられました。 17世紀初頭には奈留島にキリシタンがいたことを示す記録が残っていることから、16世紀後半から17世紀初頭の時期にキリスト教が伝わった可能性が高いと思われます。 1614年、全国に禁教令が出された後は、五島藩内の潜伏キリシタンにも弾圧が加えられ、18世紀頃には五島列島から姿を消しました。 外海地域から奈留島への潜伏キリシタンの移住は、18世紀末から19世紀にかけて段階的に行われています。移住者は無人島であった葛島に入り、その後に奈留島内の永這、椿原、南越などの地区へと広がっています。江上には外海地域から4戸が入植したとされ、、移住地の多くは既存の仏教徒の集落から隔絶した小さな沖積地に位置し、平地を稲作地として開墾するとともに、斜面地をわずかに開削して家屋を構え、集落を形成しました。1873年の解禁後、江上集落は16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへと復帰し、かつての指導者の屋敷を「仮の聖堂」として信仰の場としました。1918年、潜伏キリシタンがキビナゴ漁によって蓄えた資金を元手とし、谷間に開けたわずかな平地を利用して江上天主堂が建てられました。付近の湧水による湿気を意識して床を高く上げ、軒裏には装飾を兼ねた通風口を設けるなど、江上集落内の民家とも共通する独特の意匠や構造に特徴がです。また、この教会堂は木造下見板張りで外壁を塗装して腐食を防いで、身廊や側廊にそれぞれ独立した屋根を掛け、正面は切妻造とし、背面の祭壇を内蔵する張り出し部分には下屋を設けています。内部は3廊式の平面を持ち、アーケード、トリフォリウム、壁付の形態を備え、壁付アーチをともないます。天井はリブ・ヴォールト構造で天井裏の小屋組にはキングポスト・トラス構造を用いています。このことから、江上天主堂は19世紀以降の長崎と天草地方において建てられた数々の木造教会堂の中でも最も整った意匠、構造を持つとされています。

関連住所:長崎県五島市奈留町大串1131

問合せ:長崎県世界遺産登録推進課 0958943171


42「大浦天主堂」

「大浦天主堂」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/DSC_6665-1.jpg

「大浦天主堂内」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset12_img05.jpg

「旧羅典神学校」出典元:http://kirishitan.jp/cms/wp-content/uploads/2017/10/asset12_img06.jpg

インフォメーション:以下参照

長崎港に面した高台にあり、歴代神父が居住した司教館、当初居留地の外国人のために建てられた大浦天主堂、解禁後の宣教のために建てられた神学校、および伝道師学校の一群の建築物からなる遺跡です。この地はかつての大浦の外国人居留地内であり、開国にともなって1862年にパリ外国宣教会のフューレ神父が長崎における宣教拠点と定めた場所でもあります。 1863年に神父が居住する司教館が建てられ、続いて1864年に大浦天主堂が建設されました。3つの塔のあるゴシック風の外観で、正面上部には仏教寺院の扁額にみられるような「天主堂」の文字が記され、内部は3廊式の構造です。天主堂は、16世紀に長崎で殉教し1862年に列聖された日本二十六聖人にささげられ、彼らの殉教地である西坂の方角に向けて建てられました。 1865年の落成式の直後に長崎の浦上村の潜伏キリシタン10数人が大浦天主堂を訪れ、その中のひとりがプティジャン神父に「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ」(ここにいる私たちはみな、あなた様と同じ心です)と自分たちの信仰を告白します。いわゆる「信徒発見」と呼ばれるこの歴史的な出来事は、ただちに各地の潜伏キリシタンへと伝わり、彼らの指導者は相次いで大浦天主堂を訪れ宣教師との接触を開始しました。宣教師との接触は、各地の潜伏キリシタン集落に新たな信仰の局面をもたらし、宣教師の指導下に入ることを選んだ人々は、公然と信仰を表明するようになります。そのため、1867年に江戸幕府は浦上の潜伏キリシタンを捕え、禁教政策を引き継いだ明治政府も3,000人以上もの潜伏キリシタンを国内の20藩に配流するとともに信仰を捨てるよう拷問しました。これが「浦上四番崩れ」です。五島においても信仰を表明した潜伏キリシタンを捕らえた「五島崩れ」、久賀島では約200人の潜伏キリシタンをわずか6坪の牢屋に投獄し、多くの死者を出した「牢屋の窄事件」が起きます。これらの弾圧に対して大浦天主堂の宣教師は在日領事に働きかけて事態の収拾に努めます。1873年、諸外国による抗議を背景として明治政府がついに禁教の高札を撤廃したため、日本におけるキリスト教徒への弾圧政策は終わりを告げます。キリスト教の解禁によって各地の潜伏キリシタンは宣教師の指導下に入って16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックへ復帰する者、「かくれキリシタン」のように宣教師の指導下に入らずに引き続き禁教期の信仰形態を続ける者、神道や仏教へと改宗する者へとそれぞれ分かれて行きました。大浦天主堂の宣教師は、潜伏キリシタンが16世紀以来の信仰とともに継承してきたラテン語やポルトガル語由来の「キリシタン用語」をはじめ、潜伏キリシタンが伝写してきた教理書などを重視し、カトリックに復帰した信徒への手厚い指導を行いました。また、新たにキリスト教宣教のための彩色版画なども製作したり、潜伏キリシタンが独自に信仰を続けてきた方法に対してはカトリックとしての修正を図っていきました。大浦天主堂では、解禁後に増加する信徒に対応するために増築が行われ、1879年に現在のかたちとなりました。境内には日本人の司祭や伝道師の育成の場としてそれぞれ羅典神学校、伝道師学校が建てられました。羅典神学校は1875年に創設され、1879年に初の卒業生を送り出し、日本人司祭として各地へと派遣されています。伝道師学校は、宣教師が各地の潜伏キリシタン集落を広く巡回することが困難であったため、宣教師に代わって教理を伝える伝道師を養成するために1883年頃に創設されたもので、1892年までの間に多くの日本人伝道師を輩出し、教理指導のために各地へ派遣されました。このような羅典神学校や伝道師学校は、転機を迎えた潜伏キリシタンのカトリックへの復帰を促す大きな原動力となりました。

関連住所:長崎県長崎市南山手町5-3

問合せ:大浦天主堂0958232628

ads by google

あなたへおすすめの記事
⇒ 東京六本木の洋菓子店【LOUANGE TOKYO】
⇒ 山梨紀行・お洒落なホテル&旅館
⇒ 軽井沢リゾートの極致
⇒  野菜を楽しむ健康サイト6選
⇒ 世界最大の旅行口コミサイト【トリップアドバイザー】
ads by google