日本資本主義の開祖・渋沢栄一伝

adds by google

ads by google
Pocket

日本資本主義の開祖・渋沢栄一伝

日本資本主義の父とも称される渋沢栄一は、令和改元を期して行われる新札発行で、新一万円札の人物絵柄に採用が決まりました(発表・201949日)。そこで、その人となりをたどります。「日本資本主義の開祖・渋沢栄一伝」です。

≪インデックス≫

人物概要

1「生い立ちと幼少期」

2「生涯」

3「渋沢栄一閨閥」

4「渋沢栄一の関連建物」

5「渋沢栄一の関連企業」

6「渋沢栄一関連著作」


『人物概要』

出典元:https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/image/eiichi_img.gif

基本情報:日本を代表する明治・大正期の実業家であり、設立育成した企業の数は約500社にも及びますまた日本の資本主義を育てた経済界の巨人とも称されます。武蔵国の豪農に生まれ、一橋慶喜に仕え、実弟の水戸藩主徳川昭武に随行して仏パリなど欧州を訪問。維新後は明治政府に出仕しました。パリで学んだ知識をいかして、新貨条例・国立銀行条例など諸制度改革を行うとともに、日本に株式会社(合本組織)を導入設立した第一国立銀行を足掛かりに、王子製紙・大阪紡績・東京瓦斯など約500社の設立や商業会議所・銀行集会所の創設に関与し、日本資本主義の発達に大いなる貢献をしました。「経済道徳合一」を主義とし、一部企業が利益を独占するのを生涯嫌いました。


1「生い立ちと幼少期」

生年没年月日:天保11213(1840316)深谷生まれ。 昭和61111(1931)没。

「生家」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/46/Birthplace_of_Eiichi_Shibusawa.JPG/220px-Birthplace_of_Eiichi_Shibusawa.JPG

基本情報:天保11年(1840213日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・渋沢市郎右衛門元助18101871)、母・エイの長男として生まれました。幼名は栄二郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎を名乗ります渋沢成一郎栄一の従兄にあたります元来、渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農でした。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められる経営農家でした。栄一郎幼いころから父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も手伝いました。14歳からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパの経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想に繋がったと自らも述懐しています。一方、勉学の面では5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や『日本外史』を学び、剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んでいます。


2「生涯」

「一橋慶喜」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6b/TokugawaYoshinobu.jpg/200px-TokugawaYoshinobu.jpg

基本情報:185819歳の時に惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改め、1961文久元年に江戸に出て海保漁村の門下生となりますまた北辰一刀流千葉栄次郎の道場(お玉が池千葉道場)に入門し、その影響から1863文久3年に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画を立案画策します。しかし、惇忠の弟・尾高長七郎(従兄弟)の懸命な説得により中止します計画発覚と御沙汰を恐れ、親族に累が及ばぬよう京都に出ますが、八月十八日の政変1863年)直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動行き詰まります。その結果、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになり、仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わりますそうするうち主君の慶喜が将軍となった(*在位:18661251867129)事に伴い、幕臣となり、パリで行われる1867年開催万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・徳川昭武の随員として御勘定陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航します。

「大蔵省時代」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b6/Eiichi_Shibusawa_young.jpg

パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行し、各地で先進的な産業・軍備を視察すると共に、ヨーロッパの現実社会を見て栄一は感銘を受けます。ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは、シーボルトの長男で通訳として同行していたアレクサンダーアレクサンダー・ゲオルク・グスタフ・フォン・シーボルト でした。帰国後もその交友は続き、のちにアレクサンダーは弟のハインリッヒと共に後年、明治政府に勤めた渋沢に対して、日本赤十字社設立など度々協力しています。パリ万博後、ヨーロッパに滞在していましたが、明治維新を契機に帰国した栄一はフランスで学んだ株式会社制度を実践することや、新政府からの拝借金返済のために、明治2年(18691月に静岡で商法会所を設立します。ところが大隈重信に説得され、10月には大蔵省に入省することとなります。大蔵官僚としては民部省改正掛を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わります。しかし予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873)に井上馨と共に退官。明治8年(1875)、商法講習所を設立し民間の実業家としての道を歩み始めます。

「株式会社第一銀行旧営業場」出典元:https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/yukarinochi/photo/13_J-0001_B0007_ph01.jpg

間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行の頭取に就任し、以後は実業界に身を置き、栄一の活躍は加速していきました。現に、第一国立銀行だけでなく七十七国立銀行など多くの地方銀行設立をこの時期に集中的に指導しています。また第一国立銀行ほか、東京瓦斯東京海上火災保険王子製紙(現王子製紙日本製紙)、田園都市(現東京急行電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル秩父鉄道京阪電気鉄道東京証券取引所キリンビールサッポロビール東洋紡績大日本製糖明治製糖澁澤倉庫など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は通算500以上といわれています1887年ころには、渋沢を慕う経営者や管理職が集まる龍門社が組織され、昭和初期には数千名の会員を数えたと言います

「渋沢敬三」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f5/Keizo_Shibusawa.jpg/200px-Keizo_Shibusawa.jpg

渋沢はこのように金融の世界を皮切りに、多くの業種の企業活動を勃興させ、財界と言える礎を構築しますが、そのような活躍ぶりとは異なる人物像が存在します。三井高福岩崎弥太郎安田善次郎住友友純古河市兵衛大倉喜八郎浅野総一郎などといった、明治の財閥創始者と肩を並べる実績を残したにもかかわらず、彼等と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにあります。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めました。渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともありますが、これは死後の相続を円滑に処理するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たない規則を設定していました。このような渋沢栄一の姿勢を表すエピソードとして語られる話があります。すべての財閥当主は時の政府から爵位を授かりましたが、軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人が子爵(*正二位勲一等子爵)の爵位を授かっています。それは渋沢のこうした公共への奉仕が早くから評価されていたためであると言われています。昭和6年(1931) 死去。享年92


3「渋沢栄一の関連建物」

「中の家主屋」出典元:http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/image/group/56/nakanti_omoya.jpeg

基本情報:旧渋沢邸「中の家(なかんち)」は、渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹夫妻によって明治28年上棟された建物です。渋沢栄一が多忙な中で帰郷した際に頻繁に立ち寄り、寝泊まりした場所です。渋沢家の住宅として使われていましたが、昭和58年より「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され多くの外国人留学生が学びました。平成12年の同法人解散に伴い深谷市に帰属しました。

「施工中の当時の旧兜町自宅」出典元:http://www.tokyochuo.net/meeting/town/edo/images/edo08_03_02s.jpg

兜町は明治以後、当時経済界の指導者であった渋沢栄一によって計画され出来上がった日本で始めてのビジネス街です。その渋沢栄一の住まい兜町にありました。渋沢栄一の東京での住まいで代表的なものは5つありました。1876年(明治9年)に入手し改築した深川の自邸、1879年(明治12年)に王子の飛鳥山に新築の別邸、そして1888年(明治21年)に第一国立銀行のある兜町の一画に家を新築し、そこに本邸を移しました。その後は1901年(明治34年)に飛鳥山の家を建て替え兜町から本邸を移し、さらに1910年(明治43年)には、三田の綱町に子息の渋沢篤二のために家を建て、そこに深川の家の一部を移築して本邸にしました。

「旧自宅跡地の現在」出典元:https://www.pref.saitama.lg.jp/b0101/saitama-related-place/images/406538.jpg

その他に渋沢栄一ゆかりの建物には、王子の飛鳥山に清水建設が渋沢栄一の喜寿のお祝いに送った「晩香廬」、渋沢栄一を慕う人々の財団竜門社が傘寿のお祝いに送った「青淵文庫」の二つの建物が現存しています。また、渋沢栄一の生誕地である埼玉県深谷市の大寄地区の公民館には、第一銀行が「晩香廬」と同じく喜寿の時に世田谷に建てた「誠之堂」が移築されています。これらの建物は二代清水喜助をはじめ、清水建設が手がけています。

「飛鳥山別邸入口」出典元:http://www.asukayama.jp/stroll/images/sa1-11a.jpg

渋沢栄一は1840年(天保11年)現在の埼玉県深谷市で生まれました。幕臣として徳川慶喜に仕えた後、明治新政府においては大蔵省に出仕、新しい国づくりを精力的にとりくみました。そして明治6年に大蔵省を辞し、自ら創立に関わった第一国立銀行の総監役に就任、明治8年には頭取に就任し、長くそこを拠点にして様々な業種に亘り数多くの株式会社の設立を進め経営を指導しました。常盤橋公園には渋沢栄一の功績をたたえ、その銅像が建てられています。

補足情報―

中の家所在地:深谷市血洗島247-1

開館時間:9001700

問合せ:048-587-1100 渋沢栄一記念館

入館料:無料

 

深川自邸所在地:東京都江東区永代2-37

渋沢栄一が、明治9年(187636歳のときから12年間住んだ屋敷です。同21年に兜町に本邸を移した後も別邸として利用していましたが、同30年には当地に澁澤倉庫部(現在の澁澤倉庫株式会社)を創業しました。現在は同社の本店とオフィスビルである澁澤シティプレイス永代が建っています。

「旧深川自宅建物の現況」出典元:https://www.shimz.co.jp/event/images/20180912_ph001.jpg

清水建設(株)は、201865日付で(株)三沢奥入瀬観光開発と「旧渋沢邸」(青森県六戸町有形文化財)の売買予約契約を締結しました。「旧渋沢邸」は、二代清水喜助が手掛け、明治111878)年に竣工した明治・大正期の大実業家であった渋沢栄一翁の邸宅であり、二代清水喜助の唯一現存する作品です。当初、東京深川(現江東区)に建設されたものであり、ゆかりの深い江東区の清水建設(株)敷地へ移築される計画です。

「渋沢栄一記念館」出典元:http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/image/group/56/shibusawakinenkan.jpeg

渋沢栄一記念館所在地:366-0002埼玉県深谷市下手計1204

開館時間:9001700

問合せ:048-587-1100 渋沢栄一記念館

飛鳥山別邸所在地:下記・渋沢栄一資料館参照

問合せ:下記・渋沢栄一資料館参照

「渋沢資料館」出典元:https://www.shibusawa.or.jp/museum/photo/facility_img_04.jpg

渋沢資料館・晩香盧・青淵文庫所在地:東京都北区西ヶ原2-16-1

入館時間:10001700

問合せ:03-3910-0005

休館日:月曜日

入館料:一般300円・小中高校生100

*明治 12年(1879)からは別荘として、そして明治34年(1901)から亡くなる昭和6年(1931)までは本邸として生活をしていた飛鳥山邸は、「曖依 村荘(あいいそんそう)」とも呼ばれ、単なる私邸にとどまらず、国内外からの賓客を迎えるなど栄一の活動拠点としての「公の場」という性格も持っていました。8,470坪という敷地内には、日本館・西洋館をつなぎ合わせた本邸を中心に、茶室など附属建物が庭内に点在しており、そして大正時代には、栄一を記念した建築物である晩香廬と青淵文庫が造られています。

「誠之堂」出典元:http://www.city.fukaya.saitama.jp/ikkrwebBrowse/material/image/group/56/seisi00.jpg

誠之堂所在地:埼玉県深谷市起会110番地1

*カーナビ検索の場合は深谷市起会841(大寄公民館の住所)

開館時間::9001700

入館料:入館無料

問合せ:048-571-0341 大寄公民館


4「渋沢栄一の関連企業」

基本情報:渋沢栄一は、生涯に約500の会社に関わり、同時に約600の社会公共事業にも尽力しました。どのような会社・団体に関わったか、それが今にどうつながっているのか、名称の変遷が一目でわかるように事業別にまとめて変遷図にされています。そのインデックスを以下に掲示いています。(*渋沢栄一記念財団HPから当該頁を参考記載しています)

関連企業一覧確認インデックス: https://eiichi.shibusawa.or.jp/namechangecharts/


5「渋沢栄一関連著作」

著作名「渋沢栄一・雨夜譚/渋沢栄一自叙伝(抄)」

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/41XQVY6C4QL.jpg

著者:渋沢栄一

基本内容:日本の資本主義的基盤を確立させた実業家・渋沢栄一。第一国立銀行、王子製紙、大阪紡績など、五百余りの会社を設立したその業績をたどる自伝。「雨夜譚」「渋沢栄一自叙伝」からの抜粋。

発行年・出版社:日本図書センター 1997/12/25刊行)

全ページ数:367ページ

書価格:1944

オンラインショッピング:

https://www.amazon.co.jp/l/B001I7GZU8?_encoding=UTF8&redirectedFromKindleDbs=true&rfkd=1&shoppingPortalEnabled=true

著作名「渋沢百訓/論語・人生・経営」

出典元:https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51PsIaMTonL.jpg

著者:渋沢栄一

基本内容:人の役に立つ仕事を愉快にする―。実業界の父・渋沢栄一が、自己の考えのすべてを語り、経済の飛躍的発展を次世代に伝える。論語の精神に貫かれた国家観・人生観・経営観を背景に、渋沢が生涯を通して会得したビジネス術を具体的に指南。会社組織の運営や人材の採択にまで関わる内容は、経営哲学の『論語と算盤』と共に社会全体の経済的幸福を志向する。原書『青淵百話』から渋沢の真髄を伝える57話を精選。

発行年・出版社:KADOKAWA / 角川学芸出版 (2013/7/15刊行)

全ページ数:236ページ

書価格:802円(アマゾン価格)

オンラインショッピング:https://www.amazon.co.jp/l/B001I7GZU8?_encoding=UTF8&redirectedFromKindleDbs=true&rfkd=1&shoppingPortalEnabled=true

―参考サイト一覧―

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80

参考サイト:https://www.shibusawa.or.jp/eiichi/eiichi.html

参考サイト:https://www.kokugakuin.ac.jp/article/38738

参考サイト:http://keibatugaku.seesaa.net/article/437258210.html

参考サイト:http://www.asukayama.jp/asukayama/as09.html

参考サイト:https://www.shimz.co.jp/information/others/20180912.html

参考サイト:http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/bunkaisan/1425343509929.html

参考サイト:https://www.pref.saitama.lg.jp/b0101/saitama-related-place/fukagawa-residence.html

参考サイト:http://www.tokyochuo.net/meeting/town/edo/edo08_03.html

アイキャッチ画像:https://i.ytimg.com/vi/4sm7Rw40Pyo/maxresdefault.jpg

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%95%AC%E4%B8%89