高松松平家博物図譜

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高松松平家博物図譜

日本の図鑑の礎となったものが高松松平家博物図譜と言われています。「衆鱗図」「衆禽画譜」「衆芳画譜」「写生画帖」の413帖からなる超絶技法の賜物です。ご紹介します「高松松平家博物図譜」413帖の情報です。

≪インデックス≫

1「高松松平家博物図譜」概要

2「作成命者・松平頼恭」

3「制作関与・平賀源内」

4「衆鱗図」

5「衆禽画譜」

6「衆芳画譜」

7「写生画帖」


1「高松松平家博物図譜」概要

参考サイト:http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/bunkazai/shiteibunkazai/kaiga/matsudaira.html

出典元:http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/bunkazai/shiteibunkazai/kaiga/matsudaira.images/6206_I2_sub0000013601.jpg

基本情報:以下参照

讃岐国高松藩を治めた高松松平家には、水生生物を描く「衆鱗図」、鳥を描く「衆禽画譜」、植物を描く「衆芳画譜」「写生画帖」の413帖の博物図譜が伝来しています。松平家図譜は五代藩主・松平頼恭(17111771によって、18世紀半ばに制作されました。松平家図譜では、実物のサイズ感を大切にしつつ、花や根から果実の断面に至るまでの多角的な視点、羽や鱗、葉脈といった細かな部分までの広い視野をもって魚・鳥・植物を観察しています。そして見えるか見えないかというほどの微細な線、質感を表すための素材や彩色の工夫、平面にこだわらない表現方法などを駆使し、存在感のある姿で描写しています。その表現は様々なメディアが存在する現代においても、見る人に「ここまで描くか!?」という驚きをもたらす超絶技法です

当博物図譜(図鑑)は、高松藩5代藩主松平頼恭の命を受け、高松藩に召抱えられていた平賀源内が関わって制作されたと考えられています。動植物を細密・正確に描いた図は、現代人の目からみても図鑑として非常に質が高く、加えて美術品としても十分鑑賞されうる美しさを備えていることから、江戸時代博物図譜の白眉として全国的に知られています。また、近年の研究によって松平家博物図譜が他の図譜にしばしば模写されていることが明らかにされており、後世に多大な影響を与えた重要な図譜として、その評価はさらに高まっています。


2「作成命者・松平頼恭」

参考サイト:https://mnk-news.net/detail.htm?articleId=211

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_crest_Mito_mitu_Aoi.svg

出典元:https://mnk-news.net/images/article/keizu10.jpg

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/90/Japanese_crest_Mito_mitu_Aoi.svg/1024px-Japanese_crest_Mito_mitu_Aoi.svg.png

出生・没年月日:171175日生まれ・1771828日没、享年61

(*なお日時に関する表記は新暦・旧暦の表記差があります)

基本情報:以下参照

正徳元年(1711年)520日、陸奥守山藩主松平頼貞の五男として生まれますその後高松藩第4代藩主・松平頼桓養子となり、元文4年(1739)に頼桓が死去したため29歳で家督を継ぎます 当時の高松藩は元からの水不足に加え、火災が多発し、凶作が続いていたため財政が苦しくなっていきました。これを打開するために、頼恭は質素倹約を実行し、藩士への禄を減らして財政再建を目指します。しかしその後も状況は好転せづ、凶作が続き、藩札を発行するなどの対処を行いますが余り効果が上がりませんでした。そこで藩の収入を上げるため、頼恭は家臣の平賀源内に命じて薬草の栽培を行わせます。また当時は高価な貴重品であった砂糖栽培の研究うとともに、さらに塩田を切り開いて塩の増産を図る努力をしましたさらに頼恭は領民の声を聞くため投書箱も設置していくという施策も実施します このような藩政に尽力する頼恭を、高松藩中興の藩主として領民は称えたと言われています。後年になり、頼恭の名を留める事となる大きな偉業は「高松松平家博物図譜」の編纂命者となったことですが、頼恭の命によって魚類などを描いた『衆鱗図』、鳥類図鑑『衆禽画譜』、植物図鑑『衆芳画譜』などは藩の家臣であった平賀源内の協力を得て制作されました。


3「制作関与・平賀源内」

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85

参考サイト:https://www.at-nagasaki.jp/dejima/dejima/top/

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8b/A_Portrait_of_Ky%C5%ABkei_Hiraga_cropped.jpg/250px-A_Portrait_of_Ky%C5%ABkei_Hiraga_cropped.jpg

出生・没年月日:1728年讃岐国寒川郡志度浦生まれ・1780124日没・享年52

基本情報:平賀源内は当代随一の天才・鬼才ともてはやされましたその人生は波乱万丈の生涯でた。源内は四国・高松藩の下級武士・白石良房の三男として志度浦で生まれ、父は二人扶持の軽輩でした。それは江戸時代中期で将軍・徳川吉宗が享保の改革を進めていた頃で。少年の頃から好奇心が強く「おみき天神」というからくり人形を作り、俳諧を詠み、軍記物を読みふけり、神童あるいは天狗小僧と評されていました。源内は優秀で武士の学問・儒学を学ぶとともに文章を好み、本草学、医学など学業全般にわたって就学をつみ超優秀でた。その才能を見込まれ、13歳から藩医のもとで本草学を学び、儒学も学ぶことになります。高松藩の藩主、松平頼恭が無類の本草学好きだったことから、源内と頼恭の関係が構築され、源内をこの道へ育くむことにつながっていきます。25歳頃、源内は藩から遊学を命じられ、本草学などをはじめとするオランダの知識を得ようと長崎(出島)へ赴き、1年間の長崎滞在で蘭学を学び、世界を知ることになります。結局、長崎において源内は一高松藩ではなく日本国の殖産興業の大志を抱きます。特に貿易実態が外国品輸入、金銀輸出という現実を知り、外国製品の「国産化」に大なる野心を抱くことになっていきました。

「出島」出典元:https://www.at-nagasaki.jp/image.php?w=1400&f=/db_local_img/feature/26/feature_page/73/AF3CC7852F4E847CA703BEEC6FF3D3E7.jpg

この遊学は源内にとって強い印象を残し、本草学、医学、油絵などに以前にもまして強い関心を抱いていきました。高松藩としては、ゆくゆくは藩のためと考えての遊学でしたが、西洋文化や最新知識に好奇心旺盛な源内は、さらに本格的な研究を進めようと、遊学後に藩の役職を退くことを願い出ます。あり余る才能を持つ源内は「大望実現には江戸へ行かねば」と、江戸へ向かうのは必然だったかも知れません。27歳の時、病身を理由に妹の婿養子に家督を譲り源内は浪人(自由人)になります。 高松藩志度浦の蔵番を辞し、家督も譲って江戸へ出た源内は、本草学者田村元雄の門に入り、実証的な本草学を学びながら、師に薬品会(同好同学の人々がさまざまな産物を一堂に集め、品評し合う小規模な博覧会で物産会ともいう)の開催を勧めるとともに、自らが主催するようにもなっていきます。江戸での博物学的活躍が知られるようになると、同様に博物学を愛好する頼恭の目に留まり、宝暦9年(17599月、再度高松藩に召し抱えられます。お抱え博物学者となった源内の公務は藩主頼恭の命に従って、動植物・鉱物の調査や分類、同定、藩邸薬園等での品種研究などでた。

「田沼意次」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/26/Tanuma_Okitsugu2.jpg/250px-Tanuma_Okitsugu2.jpg

源内が再び藩に戻ったことによって調査研究された成果を、藩主頼恭は精力的にデータとして集積していきました。そして、この好奇心や情熱、調査に基づく学識、絵師たちの技術の粋、といった三者のコラボレーションが、成果物として精緻で豪華な博物図譜に結実します。それが高松松平家に伝わる博物図譜の傑作、県指定有形文化財の『衆鱗図』(魚類)、『衆禽画譜』(鳥類)、『衆芳画譜』や『写生画帖』(植物)十三帖です。しかし、源内は翌宝暦11年になると辞職を望むようになり、9月には「仕官御搆」の条件付きでそれが認められ、藩という枠の中での博物学者の役目は、わずか2年で終わってしまいます。高松藩は他藩に就職してはならないという条件をつけ脱藩を許可しましたが、源内が田沼意次に召し出されると知った頼恭は大変怒り、今後、源内を召し抱えることは絶対に認めないという内容の回状を全国の全大名に回したと言います。

「墓所」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/63/Hirara_Gennai_grave_in_Shido.JPG/200px-Hirara_Gennai_grave_in_Shido.JPG

1778年、50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世に憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされ人間不信、被害妄想が拡大して悲劇が起きます。自宅を訪れた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時、源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築設計図が見当たりません。盗まれたと思った源内は大工たちに詰め寄り、押し問答の末に激高して2人を斬殺してしまいます。だがその図面は源内の懐ではなく帯の間から出てきます。発狂した源内は捕縛され、厳寒の小伝馬町の牢内で獄死。17791218日のことでした。平賀源内は世に出ようとしてかなわなかった挫折の人で、そう考えると、意外でもあり納得できるような切ない死に様でした


4「衆鱗図」

参考サイト:https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/shoukai/kankoubutsu/sonota/

出典元:https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/shoukai/kankoubutsu/sonota/syurin1.jpg

出典元:https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/shoukai/kankoubutsu/sonota/syurin2.jpg

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出典元:https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/shoukai/kankoubutsu/sonota/syurin4.jpg

基本情報:高松藩第5代藩主松平頼恭の命より作られた「衆鱗図」は、タイやヒラメ(第一帖)、サメやフグ(第二帖)、エビやタコ(第三帖)、ハリセンボン(第四帖)などの海の生き物が、図鑑のような精緻な表現と、画帖としての華麗な美しさを併せ持って全四帖にわたって描かれています。松平家の図譜は、収録図の豊富さと描写の精緻さで知られていますが、なかでも「衆鱗図」は、従来の魚類図譜より格段に多い723図を収めるほか、彩色を盛り上げ、鱗に銀箔等を貼り、輪郭線で切り抜くなど、独特の表現技法で驚くほど写実的に描かれています。宝暦12(1762)には、10代将軍家治の求めで、松平家から魚類図譜「衆鱗手鑑」2帖が献上されますが、これも 松平家図譜の評価の高さを物語る出来事といえます

松平頼恭の命により編纂された元図譜は香川県歴史博物館に保存されています。その後、栗本丹州の魚介譜に数多く転写されており、そこからさらに、その後の様々な絵図に再々転写されています。元本はレリーフで作られていますが、その後の写本は手描きで描いてあるためレリーフほどのインパクトや驚きはないと評されています

*香川県立ミュージアムについて

公式サイト:https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/index.html

所在地:760-0030香川県高松市玉藻町55

問合せ:087-822-0002

開館時間:9001700

休館日:月曜日

*関連書籍情報:現在、衆鱗図に関連する著書や図録などの関連書籍は、香川県立ミュージアム、一般書店、WEB通販のいづれも取扱がありません。


5「衆禽画譜」

参考サイト:https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/shoukai/kankoubutsu/sonota/

出典元:https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/shoukai/kankoubutsu/sonota/syuukingafu.jpg

基本情報:高松藩第5代藩主松平頼恭の命により作られた鳥類図鑑『高松松平家所蔵 衆禽画譜 水禽・野鳥』は高松松平家所蔵の『衆禽画譜』の水禽帖(85図)と野鳥帖(74図)の全図(159図)を収録した本です。『衆禽画譜』の製作年に関しては熊本藩主細川重堅が作らせた鳥類図譜「遊禽図」に、高松藩の図譜を転写したことを記した宝暦5年(1755年)の墨書があることから、宝暦5年以前と推察されています。また作者に関しては、当時高松藩に仕えていた平賀源内が関わったのではないかと言われており、絵師は源内と親交のあった楠本雪渓(宋紫石)や雪渓の弟子であった讃岐の三木文柳などの可能性があるとされていますが、まだ特定するには至っていません。この画譜の鳥もその後、数多く模写されています。宝暦5年(1755年)頃成立した細川重賢(しげかた)作の『遊禽図』は合計26図のうち20図が『衆禽画譜』の模写と言われています。また文政13年(1830年)頃、堀田正敦作の『禽譜』にも複数の模写あります。


6「衆芳画譜」

参考サイト:https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/shoukai/kankoubutsu/sonota/

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基本情報:衆芳画譜・ 写生画帖は同じく松平頼恭の命により作られた植物図鑑です。1700年代後半に編纂されたと考えられていますが確実なことは分かっていませんこの衆芳画譜第四には当時わが国で見ることのできた観賞植物が208枚の図にまとめられていますこの図譜の編纂には讃岐の博物学者平賀源内が参画しており、源内の「物類品隲」では仙人掌に加えサンホテイタウナスイロヘロサチラサッポウなどの呼称が紹介されています


7「写生画帖」

参考サイト:https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/shoukai/kankoubutsu/sonota/

出典元:https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/shoukai/kankoubutsu/sonota/syasei1.jpg

出典元:https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/shoukai/kankoubutsu/sonota/syasei2.jpg

出典元:https://www.pref.kagawa.lg.jp/kmuseum/shoukai/kankoubutsu/sonota/syasei3.jpg

基本情報:衆芳画譜・ 写生画帖は同じく松平頼恭の命により作られた植物図鑑です。