無名のまま奄美の森に果てた花鳥画の鬼才・田中一村/2018年7月更新

Pocket

無名のまま奄美の森に果てた花鳥画の鬼才・田中一村

一村の花鳥画はゴーギャンを彷彿とさせます。生前、世に出ることもなく死した天才画家をご紹介します「無名のまま奄美の森に果てた花鳥画の鬼才・田中一村」伝です。

≪インデックス≫

1「出生情報」

2「就学と絵画との出会い」

3「東京・千葉での創作活動」

4「奄美時代の創作活動」

5「代表作品」

6「一村の関連著作物」


1「出生情報」

出典元:http://amamipark.com/wp-content/uploads/2013/12/18057144_512338962223404_1625817523390387927_n-150×150.jpg

出生没年:以下参照

1908722日栃木県下都賀郡栃木町生まれ。

1977911日奄美大島にて没、享年69歳。

プロフィール概要:本名田中孝。栃木に生まれ、千葉市に20年住み、奄美大島へ渡って亜熱帯の植物や鳥などを題材にした日本画を描き、生前それらの作品を公表する機会もなく無名のまま没した画家です。没後の1980年代、テレビの美術番組での紹介が空前の反響を呼び全国に知られるようになりました。


2「就学と絵画との出会い」

一村の父は彫刻家の田中彌吉(号は稲村)です。一村は若くして南画に才能を発揮し、界隈で「神童」と呼ばれていましたが、5歳時に家族で東京麹町に移住、7歳の時には全国児童画展で天皇賞や文部大臣賞を受賞しました。また10代ですでに蕪村木米などを擬した南画を自在に描いたと言われています。192618歳で東京市港区の芝中学校を卒業東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学しますが、自らと父の結核発病により同年6月に中退します直ちに趙之謙呉昌碩風の南画を描いて一家の生計を立てる暮らしを強いられましたそのころの状況が大正15年版全国美術家名鑑』にうかがえ、父親からいただいた田中米邨の名で名鑑登録されています。これが一村が画家生活に入る契機となります。なお東京美術学校同期に東山魁夷橋本明治らがいます


3「東京・千葉での創作活動」

「羽咋太子堂天井図」出典元:http://www.hitotonoya.sakura.ne.jp/image/taisizou.jpg

麹町に移住後、以後30歳頃まで東京での生活が続きますが、192315歳の時、関東大震災に見舞われて自宅が焼失します。17歳時には四谷坂町に移転し、18歳で中学を卒業し東京美術学校に入学しますが、前記のように結核のため入学三か月で中退を余儀なくされています。翌年1927年に弟・芳雄が16歳で、1928年もう一人の弟・実が14歳で、母・セイも43歳の若さで病のため亡くなります。この間、目立った創作は行われていなかったようで、23歳のころ南画との決別をしたようです。193224歳になると心機一転、四谷に転居しますが、三年後の1935年父・彌吉を52歳で失い、後を追うように弟・明19歳を失います。まさに東京での暮らしは創作活動どころではなく、南画家として生計を営みつつも、家族を失う重苦しい軌跡しか残せなかったのです。

「姉・喜美子(左)」出典元:http://www.hitotonoya.sakura.ne.jp/image/keiko.jpg

193830歳になり、一村は叔父の川村幾三に有り金を託し「この金額で立てられる家を手当してほしい」旨を申し出、千葉市千葉寺町に自宅を新築し、姉・喜美子、妹・房子、叔母・スエとともに移住します。その後5年間も相変わらず目立った創作活動は影を潜め、194335歳時には経済的な事情で船橋の板金工として働き始めます。しかし、すぐに体調を崩し以後2年間療養生活を送っています。当時の作品の多くは観音菩薩で精力的に描いた作品が残っています。画号を「一村」に改めた1947年、清龍社第19回青龍展で「白い花」が入選。翌年1948年の第20回青龍展にも出展しますが自信作「秋晴れ」が落選したため、併せて出展していた「波」の入選を辞退します。このことが起因し川端龍子と対立し、青龍会を脱会します。

「白い花」出典元:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2010/0821/isson_2.jpg

1952年一村44歳の頃からカメラへの興味が強まり、姉を被写体とした作品が残されています。またこのころは襖絵や天井画などを描くことが多くなり、全国各地に一村の作品が残っています。195547歳のころ紀州・九州・四国へスケッチ旅行に出かけ、南国の自然の美しさに魅了され195850歳の時、第43回院展に出品しますが落選し中央画壇への絶望を深め、千葉の自宅を売却。一人で奄美大島名瀬市柳町梅の屋に下宿する生活をスタートさせます。


4「奄美時代の創作活動」

「アダンの実等・一村撮影」出典元:http://www.kuranomachi.jp/news/museum/photo/%E4%B8%80%E6%9D%912.jpg

画家としての創作活動の集大成を目指し奄美大島に渡りましたが、暮らしぶりはここでもお金には縁のない状況が続いて行きます。暮らしは赤貧を極め、絵を描きたくとも、お金を稼がなくては生きてはいけないところまで追い詰められていま。そんな一村が仕事として選んだのが、大島紬の糸を筆で色づけする作業です。一村54歳のときのことです当時、友人にあてたハガキに次のような文面が残されています。

「私は紬工場に染織工として働いています。有数の熟練工として日給四百五十円也。まことに零細ですが、それでも昭和四十二年の夏まで(五年間)働けば、三年間の生活費と絵の具代が捻出できると思われます。そして私の絵かきとしての最後を飾る立派な絵をかきたいと考えています」(昭和37年に一村が記したはがきより)

そして(昭和42年)1967年、計画通り紬工場を辞め、ここから亡くなるまでの10年間、一村の名作を生む怒涛の創作が始まります。

「終焉の自宅」出典元:https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/n/nobujirou/20150411/20150411200856.jpg

当時の住まいはトタン葺きで6畳と4畳半に台所付きで家賃月4000円ほどの家を借り、おおらかな大屋の好意のもとで、ここをアトリエに改造したものでした。板壁をくりぬき採光のためのガラス窓を造るなどの改造はすべて自分で行ったといいます。そして改造が終わると、今度は庭先に5坪ほどの菜園を造りあげました。こうして自分の食料は自分で確保するというくらしでした。

「不喰芋と蘇鉄」出典元:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2010/0821/isson_6.jpg

中でも昭和40年代に描かれた「不喰芋と蘇鉄」は奄美作品の集大成ともいわれ、一村自らも自分の命を削って描いたもので閻魔大王への土産品だと語っています。絵にあるクワズイモの実は、花芽から実が朽ちるところまでが順を追って描かれ、生まれてから死ぬまでの時間の流れが現されていると評されています。197668歳時、畑仕事の途中、脳梗塞で倒れ入院。翌1977911日一人で夕食の準備中倒れ生涯を閉じます。生涯独身で、個展を開くことは一度もありませんでした。2001年奄美パーク内に「田中一村記念館」が開館されました。


5「代表作品」

昭和3年作「艶鞠図」個人蔵

「黄昏」出典元:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2010/0821/isson_3.jpg

昭和20年代作「黄昏」個人蔵

昭和22年作「白い花」個人蔵

昭和37年頃作「初夏の海に赤翡翠」田中一村記念美術館

昭和40年代作「不喰芋と蘇鉄」田中一村記念美術館

昭和42年作「白花と赤翡翠」岡田美術館蔵

「アダンの海辺」出典元:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2010/0821/isson_1.jpg

昭和44年作「アダンの海辺」個人蔵

「熱帯魚三種」出典元:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2010/0821/isson_7.jpg

昭和481973年作「熱帯魚三種」岡田美術館蔵


7「一村の関連著作物」

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51WZ6B5RNZL.jpg

著作名:「田中一村作品集」

2001年に出版された『田中一村作品集[新版]』の増補改訂版。異端の画家・田中一村は、特定の画壇に属さず師につかず、その学びの姿勢は克己と挑戦であった。日本の南画にとどまらず、本場中国美術をも自分のものにし、西洋絵画においてはピカソまで視野に入れていた。独学の果てに選んだテーマは「墨画の近代化」。亜熱帯の植物をモチーフに「奄美12か月」を完成させた。228点におよぶ収載作品から、その生涯と軌跡を新たにたどる。このテキストは単行本版に関連付けられています。

著者:田中一村著・

出版社:日本放送出版協会

出版年:2001

書価:3888

オンラインショッピグ:https://www.amazon.co.jp/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%80%E6%9D%91%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E4%B8%80%E6%9D%91/dp/4140092912

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51NEYGNSNML.jpg

著作名:「アダンの画帖田中一村伝」

伝説の日本画家田中一村ただ一冊の伝記。画壇に背を向け生涯、妻を娶らず自らの才能だけを信じ貧窮をものともせずひたらす絵をかいた69年の軌跡。東京・千葉・奄美と移り住んだ一生を追う。

著者:南日本新聞社編

出版社:小学館

出版年:1995

書価:805円~

オンラインショッピグ:https://www.amazon.co.jp/dp/4093871493?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51SC27Z6S5L.jpg

著作名:「田中一村 豊饒の奄美」

奄美に渡り「描く鬼」となった日本画家・田中一村。丹念な作品調査のほか、一村自身の手紙やメモを基に、本格的な作品論を展開。知られざる画家の実像を浮き彫りにする。『美術の窓』連載に加筆して単行本化。

著者:大矢鞆音著

出版社:NHK出版

出版年:2004

書価:1416円~

オンラインショッピグ:https://www.amazon.co.jp/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%80%E6%9D%91-%E8%B1%8A%E9%A5%92%E3%81%AE%E5%A5%84%E7%BE%8E-%E5%A4%A7%E7%9F%A2-%E9%9E%86%E9%9F%B3/dp/4140808608/ref=pd_sim_14_4?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=PY1HH3SWX38YJBZY0E4V

出典元:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/519EE4FTXQL.jpg

著作名:「田中一村の彼方へ」

「これは百万円でも売れません。これは私の命を削つた絵で閻魔大王えの土産品なのでございますから」 中央画壇に背を向け、奄美の極貧の生活の中で、独自のスタイルの絵を描き続け、一人死んでいった日本画家の生涯。

著者:加藤邦彦著

出版社:三一書房

出版年:1997

書価:6399円~

オンラインショッピグ:https://www.amazon.co.jp/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%80%E6%9D%91%E3%81%AE%E5%BD%BC%E6%96%B9%E3%81%B8-%E5%8A%A0%E8%97%A4-%E9%82%A6%E5%BD%A6/dp/4380972909/ref=pd_sim_14_2?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=R4TFBHK45TKVBC5VE7K2

参考サイト:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2010/0821/0821.html

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%80%E6%9D%91

参考サイト:http://amamipark.com/isson/

参考サイト:http://archipelago.mayuhama.com/entry/2015/04/11/203135

参考サイト:http://www.churashima.net/books/200605/01.html

参考サイト:http://www.kuranomachi.jp/news/museum/2013/01/1222.php

参考サイト:http://survivalgame.weblike.jp/isson/page002.html

参考サイト:http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2015/0908_2/0908_2.html

参考サイト:http://www.hitotonoya.sakura.ne.jp/episodo3.htm

ads by google

あなたへおすすめの記事
⇒ 東京六本木の洋菓子店【LOUANGE TOKYO】
⇒ 山梨紀行・お洒落なホテル&旅館
⇒ 軽井沢リゾートの極致
⇒  野菜を楽しむ健康サイト6選
⇒ 世界最大の旅行口コミサイト【トリップアドバイザー】
ads by google