詳説・東京駅2019

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詳説・東京駅2019

国内鉄道網の要、それが東京駅です。そして日本を代表するビジネスゾーン丸の内と対峙する駅舎には多くの歴史が宿ります。そこでご案内します「詳説・東京駅2019」情報です。

≪インデックス≫

1「東京駅基本情報」

     1-A:歴史

    1-B:稼働データ

2「東京駅商業ゾーン案内」

    2-A:丸の内口

    2-B:八重洲口

    2-C:日本橋口

参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%A7%85
参考サイト:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%87%8E%E9%87%91%E5%90%BE
参考サイト:http://www.tokyostationcity.com/learning/pdf/history_panel05.pdf
参考サイト:http://www.asahi.com/special/train/2014shinkansen50/tapecut.html
参考サイト:https://www.tokyoinfo.com/access/map/
参考サイト:http://www.tokyoseikatsu.com/town_tokyo/business/marunouchi/post-241.php

1「東京駅基本情報」

1-A:歴史

情報1.「鉄道の始まりと東京駅の計画」

「竣工時の東京駅」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/87/Tokyo_Station_original_shape.jpg/240px-Tokyo_Station_original_shape.jpg

東京の鉄道網の始まりは、18721014日(旧暦明治5912日)の日本の鉄道開業に際して、新橋・横浜間が開通したことに始まります。この時の新橋駅は後に貨物駅となった汐留駅で、横浜駅は現在の桜木町駅になります。 その後1889に国鉄東海道本線の新橋~神戸間が全通し、私鉄の日本鉄道が上野を始発駅として青森に向けて線路を建設しました。そこで、新橋と上野を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896の第9帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決されます。実際の建設は日清戦争日露戦争の影響で遅れ、建設工事は戦争終了後の1908から本格化し、19141218に完成し、この駅が「東京駅」と命名されました。 施工は大林組が担当しました。


情報2.「駅の設計」

「辰野金吾」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/6b/Tatsuno_Kingo%2C_Director_of_the_College_of_Engineering_at_Imperial_University_of_Tokyo.jpg/200px-Tatsuno_Kingo%2C_Director_of_the_College_of_Engineering_at_Imperial_University_of_Tokyo.jpg

設計者:「辰野金吾」

設計作業の経過について:以下参照

当初、高架線建設の技術指導のためドイツから招聘されていた、フランツ・バルツァーの提案設計案が存在してましたが、日本風の駅舎案は、ヨーロッパ崇拝の時代にあった当時の日本にあっては受け入れられるものではありませんでした。その為、改めて駅舎についての設計が行われることになり、当時の建築界の権威であった辰野金吾1903年(明治36年)12月、正式依頼されることになります。設計に際して辰野が受けた注文は、バルツァー案では建物が5棟並べられてみすぼらしいので、建物を連続させて見栄えを壮観なものにしてほしい、ということであった言われています。結果的に作業は長引き、辰野率いる辰野葛西建築事務所による駅舎設計は1910年(明治43年)12月に最終完了するまで、足掛け8年にも及ぶものとなりました。この辰野金吾設計の駅舎は、ペトルス・カイペルスオランダ語版)設計で1889年に完成したオランダアムステルダム中央駅を参考にしたと言われることがありますが、辰野がオランダを訪れた記録はなく、またアムステルダム中央駅を参考にしたと本人が述べた記録も存在しません。


情報3.「建設計画の全貌」

「完成時のドーム天井」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b5/Tokyo_station_Marunouchi_building_dome_at_its_completion.jpg

中央停車場建設については、1902年(明治35年)7月から高架橋の工事がまず始められ、駅舎についても1908年(明治41年)325日に基礎工事が開始されました。この時点でまだ駅舎の設計そのものは完了していませんでしたが、上部構造概要が固まっていたことや、1912年(明治45年)に東京で万国博覧会を開く計画があったことなどから、当局が工事速成を要望して設計完了前に着工されました。建設を請け負ったのは関西を地盤とする当時新興の建設業者大林組で、指名競争入札により落札しました。大林組としては、大阪電気軌道(現:近鉄)の生駒トンネルの工事と並んで、社業を発展させる二大工事と称されました。大林組の工事は大変入念で、完成後に練達の検査官が検査をしても1つも欠点を発見できないと舌を巻いたほどで、鉄道院から褒状が送られています。

「鉄骨組立時」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/87/Tokyo_station_building_construction_work.jpg/1920px-Tokyo_station_building_construction_work.jpg

鉄骨は一部八幡製鐵所(現:新日鐵住金)製の国内産の他、イギリスおよびアメリカからの輸入鋼材が使用され、石川島造船所(現:IHI)が製作・組立を請け負いましたた。1909年(明治42年)101日から1911年(明治44年)731日にかけて鉄骨の製作が行われ、現場での組み立ては1910年(明治43年)81日着工、1911年(明治44年)912日完成となりました。使用された鋼材は約3500トンに達し、壁体および床は1911年(明治44年)420日着工、1913年(大正2年)518日完成となりました。煉瓦は構造用に日本煉瓦製造製のものを約767万個イギリス積みで、化粧用に品川白煉瓦製のものを927000個小口積みで使用し、目地の仕上げは覆輪目地とされています。南北の八角形大広間のドーム天井には、鷲の像や十二支をモチーフにしたレリーフ、兜や鎧など日本的なモチーフをデザインした装飾などが取り付けられました。電気工事、給排水工事、暖房工事などを含め、1914年(大正3年)1215日に竣工となっています。基礎工事の着手から69か月かかりましたが、設計が完了する前に基礎工事を始めてしかもそれが順調に進んだことから、実質的な工事期間は57か月あまりでした

「丸の内駅舎完成時」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/88/Tokyo_station_building_front_view_1914.jpg/1920px-Tokyo_station_building_front_view_1914.jpg

完成時の東京駅本屋は地上3階、地下1階建、建築面積約7800平方メートル、延べ床面積約23900平方メートルで、高さは地盤からドーム上面まで約34.8 m、中央部の軒高は約16.7 m、長さは約335 mですが、南部の斜めに折れ曲がっているウィングを除くと約270 mでした。使用した材料は煉瓦9266500個、セメント28843樽、花崗岩83395切、鉄材3500トン、木材18200尺、松丸太11050本に上っています。作業員は延べ747294人で、1日平均300人強が働いていましたが最も忙しい時期には1000人近くが働いていました。 工費は「東京停車場建築工事報告」で集計の時点で2822005円で、その当時工事中であったステーションホテルの費用約16万円を含めると約298万円に達しました。

「皇室通路」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7c/Tokyo_station_Marunouchi_building_imperial_corridor_1914.jpg/800px-Tokyo_station_Marunouchi_building_imperial_corridor_1914.jpg

皇居の真正面に駅が建設され行幸道路により直結され、また駅舎の中央に皇室口が設けられたことなど、完成した東京駅は「国家の中心駅」「天皇の駅」としての位置づけが強く打ち出されたものとなりました。


情報4.「戦災」

「戦災にあった駅舎」出典元:https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcT7-mSk62EFNR8v2Tf2AMtWuE8LIl3KgAiuyRB8Kf_bWGCmzjhI

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5252230分頃から約2時間半に渡ってB-29250機による東京空襲が行われ、この際に丸の内駅舎降車口(北口)付近に焼夷弾が着弾して炎上しました。駅員総出で消火活動に当たったものの火勢が強く駅舎全体に延焼 し、大火災を引き起こしました。これによりレンガ造の壁やコンクリート製の床など構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われました。同年8月の終戦直後から修復体制を整えて計画を立案し、年末から1947(昭和22年)にかけて修復工事を行っています3つのドーム部分の外壁は修復しましたが、安全性に配慮してその他の焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除き、2階建てに変更中央ドームは木造小屋組で元の形に復元、南北両ドームは丸型から台形に変更、軒蛇腹・パラペット・壁面・柱型・窓枠などは2階建てになっても忠実に復元しています。南北ドーム内のホール天井はローマパンテオンを模したデザインに変更といった内容でした。できるだけ早期に本格的な建て直しをするつもりで「45年もてば良い」とされた修復工事でしたが、実際は占領軍の要求で突貫で行われました。中でも当時の鉄道省建築家・伊藤滋や松本延太郎たち、あるいは工事を行った大林組の日夜の努力で日本の中央駅として恥ずかしくないデザインによる修復をした涙ぐましい多くの逸話が伝えられています


情報5.「東海道新幹線の開通」

「東海道新幹線開業」出典元:http://www.asahi.com/special/train/2014shinkansen50/images/tapecut.jpg

高度経済成長を背景に東海道本線の輸送需要も増加を続け、いよいよ限界に達しつつありました。このため戦前の弾丸列車計画を受け継いで、新幹線計画が開始されることになり、1959年(昭和34年)420日に新丹那トンネル東口において起工式が行われました。一方、東京におけるターミナル駅をどこにするかは決定は遅れます。当時、東京駅における混雑がさらに激化することを懸念する意見もありましたが、周辺交通への乗り継ぎの便を考慮し、また八重洲駅舎建設時に第7プラットホームとの間にさらに2面のプラットホーム建設の余地を残しており、乗り入れる余地があったこともあって、東京駅をターミナルとすることが決定され、1964(昭和39年)の東海道新幹線開業時に起点駅となります。開業時の新幹線ホームは23線でしたが、現在は36線です。東北・上越・北陸新幹線とレールはつながっていませんが、国鉄時代には乗り入れ計画があったことから1415番線ホームは上野方向にカーブしています。建設には東京駅開業以来建設を請け負ってきた大林組に加えて鹿島建設が参加し、高架橋工事と幅10.2 m、長さ360 mのプラットホーム2面を増設する工事を行いました。またその下部に広い旅客コンコースを設置し、それまでここにあった名店街を地下に移設しました。こうして1964年(昭和39年)101日、東海道新幹線が開通し、第89プラットホームの171819番線(23線)が供用開始となりました。


情報6.「丸の内駅舎の復元事業」

「復元駅舎」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9f/South_entrance_of_Tokyo_station.JPG/1024px-South_entrance_of_Tokyo_station.JPG

前述のとおり、かつての丸の内側の赤レンガ本駅舎は1945昭和20年)525のアメリカ軍による東京大空襲により炎上、内装と屋根を焼失しました。戦災復興工事によって、失われたドーム屋根にかわって木造8角形の屋根が載せられ、内部は3階の窓の開口部は保持されましたが、残存したアーチなどのレリーフは、新設されたローマのパンテオン風の意匠によるジュラルミン製のドームによって隠されたままでした。 この復旧された駅舎は、応急復旧のままで60年余りが過ぎることになります。旧・日本国有鉄道(国鉄)は戦後度々赤レンガ駅舎の建て替え構想を出しては延期しており、1987(昭和62年)41日の分割民営化の時には当駅全体の土地の3分割を伴った再開発構想が提案され、赤レンガ駅舎の建て替え高層化か保全をするかが本格的に課題となった経緯もありました。これに対して、「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」などによる赤レンガ駅舎保存の市民運動が起こります1988(昭和63年)、政府は学識者の委員会による東京駅周辺地区再開発構想を取りまとめ、赤レンガ駅舎の現在地での形態保全の方針を決定し、JR東日本などの検討により1999(平成11年)、本来の形態に復することを決定しました

「復元前ドーム」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Tokyo_station03_2048.jpg/800px-To
kyo_station03_2048.jpg

「復元後ドーム」出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/fc/Tokyo_sta_DOME.jpg/800px-Tokyo_sta_DOME.jpg

復元工事に先立って2006年(平成18年)317日~31日に丸の内駅舎内で「東京駅ルネッサンス」が開催され、2007年(平成19年)530日より、鹿島・清水・鉄建の建設共同企業体が担当となって、駅舎を本来の姿に近い形態に復元する工事が開始されました。ドーム内部の保存と復元の基本方針は部位によって異なり、3階以上の壁面と天井面は、干支や 2m を超える大きさのワシの彫刻やレリーフが存在した創建時の意匠を忠実に再現し、1階と2階は、3階以上の部分と調和を図りながらも機能性に優れた新しいデザインとしました。3階張出部を支えていた装飾付きの鉄骨支柱は、RCで補強され円柱にかわったために、全体としては機能的な装飾のない意匠となりました。またドームに施されたレリーフは南北のドームとも全く同じで仕様です。2012 (平成24年)610日に、復元された駅舎の一部(1階部分)が再開業し、同年101日に全面再開業しました。また、復元工事に伴って2006年(平成18年)4月から営業を休止していた駅舎内の「東京ステーションギャラリー」(東日本鉄道文化財団運営)も全面再開業と同日に拡大再開業し、翌々日の3日には「東京ステーションホテル」も規模を拡大して再開業しました。さらに地下には新規にレストランが開業しっました。なお工事費用(500億円と新聞などで報道されました)はJR東日本などが「空中権の売買」を行って捻出しまし


1-B:稼働データ

情報1.「乗り入れ路線」

出典元:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3b/Lines_from_Tokyo_Station.svg/800px-Lines_from_Tokyo_Station.svg.png

東京駅にはJRの新幹線と在来線各線、東京メトロ丸ノ内線の三系統16路線が乗り入れています。JRの駅に乗り入れている路線は、正式な線路名称上は新幹線が東海道新幹線と東北新幹線の2路線、在来線が東海道本線・東北本線・総武本線・京葉線の4路線であり、東海道本線を当駅の在来線における所属線としています。なお管轄会社は東海道新幹線がJR東海、東北新幹線がJR東日本となっています。これら各路線はすべて東京駅を起点としており、当駅構内にはこれら各線の0キロポストが設置されています。ただし旅客案内では運転系統名称が使用されています。案内上の「東北(本)線」は長・中距離列車を意味し、それらはかつて上野駅発着であったため、当駅では用いられていませんでした。現在は上野東京ラインが開業し、特に東海道新幹線における車内放送の乗り換え案内を中心に使われるようになっています。なお中央本線についても、かつては東京駅が正式な起点でしたが、東京駅~神田間における東北本線との二重戸籍区間を解消するため、JRへの移行に伴い中央本線は神田駅が起点となっています。

*運転系統では、JR東日本の新幹線ホームには、以下の路線の列車が乗り入れています。

・東北新幹線

上越新幹線

北陸新幹線

・北海道新幹線

山形新幹線

秋田新幹線

*在来線に関しても多岐にわたる運転系統が以下のように乗りれ発着しています。

・東海道線

・宇都宮線

・高崎線

・常磐線

・京浜東北線

・山手線

・中央線

・横須賀線

・総武線(快速)

・京葉線

≪次ページパート2≫もご覧ください